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接吻
圭が、何故か隼人の手元をじっと見つめている。食後の珈琲を飲んでいたのだが、空になったのでもう、用は済んでいた。
食卓の上に珈琲茶碗を置くと、圭は満足そうに口元だけで笑んだ。
「長瀬さん、接吻をなさったことはおありですか?」
せっぷんの意味がわからなかった。しばし考えて、接吻の漢字が頭に浮かぶ。いや、しかし……と、迷い、狼狽える気持ちを理解したのか、圭が今度は珍しく感情豊かに笑みを見せた。
「経験はありませんか?」
「何を知りたくて、二十九の独身男にそんなことを聞くのかは知らないけど、気を付けてくれよ、危うく珈琲茶碗を壊す処だった」
「えぇ、ですから手放すまで待ったのではありませんか」
「お気遣いありがとうと言いたい処だけど、もっと別の気遣いも欲しいものだね」
「気が利かないものですから」
余裕の表情で言ってのけると、らしからぬ満面の笑みを見せつける。いつもとは違う、可愛らしい笑み。思わず背筋が冷えた。
「どうしたの?」
「実は、新城夫人がやたらと顔を近づけて来るのです。最初はそう言う癖のある人なのかと思ったのですが、視線が唇に向いているのに気付きまして」
心の中で戸惑う。男の子だから安全だと思っていたが、少女時代から執着していた、美沙子の美貌を受け継ぐただ一人の人間であるから、例外なのだろうか。
圭が子供なのを良いことに、少女時代に叶えられなかった思いを遂げようと画策しているのだとすれば、保護者としては見逃すわけにはいかない。
「長瀬さんが経験おありならば、実践で教えて頂けないかと」
高熱が出た時のように、クラクラと眩暈がしているような気がした。
「まさか先手必勝で自分から接吻しようなんて、考えているわけではあるまいね?」
「私と致しましては、母が憎んでいたであろう人が初めての相手になりましたら、母に顔向けできなくなります。
ですから、とりあえず経験しておけば……」
「俺が君のご両親に顔向けできなくなるのだけど」
「大丈夫ですよ。長瀬さんは私を助けてくれた方ですから、両親は感謝しておりますよ」
「だとしても、そういうことは将来好きになった人と……」
「それは私が、恋を経験し、結婚をすると仮定してのお言葉ですよね?
私は結婚は勿論、恋をする予定もございません。
長瀬さんも結婚なさる気がないようにお見受け致しますので、お互いにさほど問題は無いかと」
さっきからどうでも良いことにばかり気遣いを見せてくれるのが気になる。
「どうして俺に結婚の意思がないと?」
「正子夫人です」
突然母、正子が話題に上り、意味の分からぬまま耳を傾ける。
「正子夫人は適齢期の方のご縁を結ぶのがお好きなようですが、長瀬さんには一切、仰られません。それはつまり、長瀬さんが結婚の意思がないとご存知で、納得なさっておいでなのだと、私は理解しております」
全くもってその通りだった。圭を見た目通りの子供だと思っていたのは少し、甘かったのかも知れない。
「だからと言って、そんな不道徳なこと、大人としてはできないよ」
「公言しなければ、なんの問題もありません」
「断ったら、勇一に頼むの?」
「まさか。新聞記者にそんなことを頼んだら、とんでもないことになりますよ」
「そうはいうけど、俺も弁護士だったのだけどね」
「えぇ、ですから」
妖しい光が瞳に灯る。
「秘密厳守」
「成程ね」
圭の笑みに、鼠をいたぶる猫の残酷さが見え隠れする。既に圭の興味は、逃げる隼人を追い詰めることに向けられたのだと気付いた。
少女のような圭にこんなことを言われたなら、その気になる者もあるだろう。危うさを感じながらも、相手の性格を理解して選ぶだけの狡猾さはあるだろうとも考える。
「お断りだよ。
新城夫人が顔を近づけて来たなら、引っ叩いてやれば良い」
キッパリと断ったのは、大人としての常識は勿論、圭の、目的の為には手段を選ばない傾向に気付いたからでもあった。
将来、隼人を利用しようと考えた時、唇を重ねた事実があったなら、脅迫のネタにしないとも限らない。
圭がそんな卑怯な人間だとは思わないが、追い詰められてやむにやまれず。ということも無いとは言い切れない。
圭は肩を竦めると、分かりました。と、素直に引いた。
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