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ハンケチ
『礼子様のお屋敷に伺うとひどく疲れてしまう。二人を隔てるのは小さなテェブルだけで、近くに顔を寄せてこられるのがとても気になる。風景を見る振りなどをしてかわしているけれど、どういうおつもりなのか。疲れてしまったので圭一さんをばあやにお願いして、先に休ませてもらった』
礼子の宮殿に招かれた翌日の日記。どうやら美沙子にも同じことをしていたらしい。圭はいざとなれば本気で引っ叩く気でいるが、美沙子はそうはいかなかっただろう。礼子の目的には気付いていたのだろうが、はしたなすぎて日記に記す気にはなれなかったに違いない。
『安原様から姪御様に刺繍を教えて欲しいと頼まれ、伺った。姪御様の東子様はとてもお可愛らしく、一目で好きになってしまった。和孝さんに相談したら、それはとても光栄なことだね。と勧めて下さったので、お受けすることにした』
女学校時代から手紙のやり取りは続いていたらしい。お互い結婚したこともあり忙しくなった為、一月毎程度の頻度になっていたが、友情は変わらなかったようだ。
『安原様には三人のお子様がいらっしゃる。羨ましい。和孝さんも私も、次のお子をと望んではいるのだけれど、なかなか恵まれない。私が怯えているのが原因なのかもしれない。娘が欲しいと思いながらも、私に似ていたらと思うと怖い』
これが書かれた頃圭は十才。周りも二人目は諦めている様子だった。ただ、圭は大きな病気もせずにいたのが幸いであった。
この五年前に美沙子は、義母と両親を流行り病で亡くしていた。そして二年前には、一人きりの弟が行方知れずになってしまっていた。実家を継ぐ者もなく、頼れる相手は和孝のみ。心細く思っていたに違いない。
あの頃、圭には決して弱音を吐かなかった美沙子も、日記には寂しさや後悔を綴っている。
それ以上に、和孝や圭一に対する愛情、ハルに対する感謝。
母親を守れなかった後悔を抱えたまま過ごしてきた圭は、せめて美沙子が心置きなく旅立てるよう、心残りを解決しようと決心していた。
美沙子の心残りは、貴久子の死が関わっている。それだけはわかっている。貴久子を美沙子から離すために、アイスとの噂を流したのは礼子だろう。
そこまでの推理は簡単にできる。しかし、どうにも美沙子が礼子を怖がり、女の子を産むのを恐怖する理由がわからなかった。
美沙子に似た女の子が生まれたならば、礼子が更にしつこく付きまとうであろうことは、簡単に想像できるのだが、和孝に相談すればどうにかできただろう。
なにがそれほど美沙子に恐怖を与えたのか。まだ圭にはわからない。
『久しぶりに銀座へ食事に出かけた。偶然新城様がレストランから出ていらしたのに出くわした。私は実は新城様のお顔を存じ上げなかったのだけれど和孝さんが見知っていてご挨拶をしたのだ。退屈したらしい圭一さんが近くに咲いていた百合の花に触って、花粉が付いてしまったので、ハンケチを出して拭いてあげていたら、新城様はとても驚いた様子の表情をこちらに向けていらした。どうしたのかしらと思いながら視線を辿ると、ハンケチに向けられている。ハンケチには頭文字を刺繍してあったのだけど、私は間違えて圭一さんのハンケチを持って来ていたのだ。その程度のことでなぜあんなに驚かれたのかしら』
何度か新城家を訪れてはいるものの、美沙子は一度も礼子の良人、新城隆彦と顔を合わせていなかったらしい。
それにしても、疑問なのは隆彦がなにに対して驚いたのかということだ。美沙子は、MAの自分がKAの手巾を持っていたのが理由だったと思っていた様子だが、その程度なら驚く理由にはなるまい。
その日のことは圭も覚えていた。二月か三月に一度、三人でレストランで食事をするのは、圭にテーブルマナーを身に着けさせる為だった。和孝は洋食が苦手で、自宅では基本和食であったが、和孝の留守中に洋食を用意してくれ、ナイフだのフォオクだのを使っていた。
正式なテーブルマナーを知らなければ恥をかくからと、この時ばかりは和孝が我慢をしてレストランでコース料理を頂く。
留守がちな父親と出かけるのも久しぶりであった。色々とお喋りをしながら歩いていると、レストランの入り口で和孝が突然、見知らぬ男に話しかけたのであった。
男は息子と思われる少年を連れていた。あまり行儀の良い少年ではなかった。退屈して圭は百合の花を観察し始めたが、少年は道に落ちている小石を蹴っ飛ばして、歩いている犬にぶつけようとしていた。使用人らしい男が咎めるのを、少年は全く意に介さなかったのを覚えている。
隆彦には子供はいないらしいから、もしかしたらランデブーだったのかもしれない。
指先に付着した花粉に気付いて、美沙子が鞄から手巾を取り出し、拭いてくれた。その時美沙子は隆彦を見上げ、その後手巾を見て、あら。と、小さな声で言った。これは圭一さんの手巾ね。と。
空色の絹糸で頭文字を刺し、美沙子が好きな四つ葉のクロォバァを合わせた物であった。
男の表情はまるで、今にも殺されそうな人間のものだと、その時思った。
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