誘惑

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誘惑

 目の端で、圭が髪を手で梳くのが見えた。右手の指を揃えて、前髪を後ろに流したのだが、その仕草が少女染みていて、違和感を憶えた。圭らしからぬ仕草であった。  そうして、釣り上がり気味の切れ長な目を、いつになく柔らかな、優しく見える風に見開き、上唇を下唇に被せた状態でにこりと笑った。  その姿はとても可愛らしかったけれど、普段の圭を知る隼人は、背筋が寒く感じさえした。  圭が少女の振りをしているように見えたのだ。  少女に間違えられると、目が更に釣り上がるほどの怒りを見せる圭が、どういう理由で少女の振りをするのか。分かりかねるだけに怖い。  圭の笑顔を見て、ざわめきが更に高まる。  礼子は目に、涙を溢れさせていた。 「白梅の君!」  踵の高い洋靴で床を高く鳴らしながら、礼子は短い距離を駆けた。 「いいえ、違うわ……」  隼人は全く視界に入っていないらしく、腰を屈めて圭を真っ直ぐ見ると、淋しげに呟いた。 「麻上……圭一様?」  相変わらず少女の表情で、圭は首を傾げるような角度で、頷いて見せた。  礼子の頬に、涙が幾粒も零れた。  麻上……白梅の君……美沙子様……同じ言葉が違う人間の口から発せられる。  白梅の君は初耳だが、美沙子は、圭の母親だと理解していた。口々に発しているのは、美沙子と同じ年頃の婦人ばかり。恐らく女学校時代の美沙子の呼び名だったのだろうと見当をつけた。少女はとかく、夢見がちな呼び名を付けるのだと、姪の幸子から聞いていたのだ。  圭を見る限りその美しさは大輪の薔薇や蘭ではなく、白梅の方が相応しく思えた。可憐で無垢。しかしどこか凛とした美しさがある。  礼子は白い手巾(ハンカチ)で涙を拭うと、圭を見つめた。 「白梅の君によく似ておいでですわね。  なんという偶然なのかしら。この音楽会は白梅の君のお好きだった曲を選びましたの。あの方を偲ぶ方達を呼んでおりますのよ。その会に、ご子息の圭一様がお出で下さるだなんて」 「母の導きなのでしょうか。  長瀬紀夫様の代理でいらっしゃる隼人さんに、図々しくもついて参りました。  しかし、招待状が一枚しかなく、私はお暇させて頂こうかと……」  声も、心なしか高い。話し方も優し気で、普段のやや素っ気無い態度とは全く違っていた。隼人の家族の前では子供っぽい態度になるが、今はそうではなく、淑やかな優等生の少女。と言う雰囲気であった。 「まぁ、何を仰いますの。是非、ご一緒にご鑑賞下さいませ。お席はすぐに用意させますわ。  え、と、長瀬商事の……末のご子息でしたかしら?」  隼人は愛想笑いを浮かべつつ、深々と頭を下げた。  隼人ほど特徴のある人間をうろ覚え程度にしか覚えていない事実に、驚きを隠せなかった。人を覚えるのが苦手な人間であっても、隼人だけは覚えている。  にも関わらず、礼子の態度は見事なものである。男嫌いで有名な人ではあるが、ここまで徹底しているのに、仕事関連の相手であれば覚えられるのだろうか。と、疑問さえ湧く。 「お二人はどういうご関係ですかしら?」  席を一つ増やすようにと、近くにいた社員らしい男に言いつけると、礼子は不思議そうな表情を二人に向けた。 「長瀬さんは私の雇い主です」  間違いではなかろうが、今までこのような言い方をしたことはなかった。一番しっくりくる言い方は、隼人の助手。であろうか。 「雇い主?」  礼子の目が、隼人を睨みつけた。 「はい」 「どういうお仕事ですの?」 「長瀬萬請負という、所謂何でも屋なのですが、世間一般的には探偵と認識されておりますね」 「まぁ……あ……」  不満気な声が漏れ聞こえた。 「そろそろお時間です」  藤色のドレスを着た美少女が、礼子の隣で声を掛けた。 「わかりました。  それでは、ごゆっくりお楽しみ下さいませ。  お席は用意しておりますので、こちらの者が案内を」  美少女が淑やかにお辞儀をした。
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