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日記
事務所で、二人して新聞を広げていた時、玄関扉の向こうに一人の品の良い老女が、不安気に立っているのに気付いた。
「依頼人……かな?」
隼人の言葉に、圭が振り返る。途端に、跳ねるように立ち上がった。
「ばあや」
玄関扉に駆け寄る。子供のようであった。
扉を開くと、中に入るよう促した。
「どうしてここが? 私は住所を教えていたかしら?」
腰を屈めて申し訳なさそうに、老女は圭の後をついてきた。
「長瀬様でいらっしゃいますか?」
更に腰を屈めると、体を折り曲げた。
「突然申し訳ありません。圭一様に教えて頂いたご住所に参りましたらお留守で、お向かいのお宅の紳士がこちらを教えて下さいまして」
「あぁ、渡辺さんが」
「お初にお目にかかります、松井ハルと申します。麻上男爵家でお世話になっておりました。
圭一様をお助け下さったそうで、ありがとうございます」
外にいた時とは正反対に、まるで体が丸まっているのが普通ででもあるかのように、腰を曲げっぱなしである。
「いえ、こちらこそ助かっているのですよ。彼のお陰で仕事が増えましたし」
噓では無い。日本語が通じそうな容姿の人間が一人いるだけで、依頼人の数は増えた。
そればかりではなく、圭は頭も良く、気が利く。
「とにかく、こちらにお座り下さい。お疲れでしょう?」
ソファを指し示すと、気後れしたような表情で隼人を見た。
「長瀬さんの仰る通り、ここに座って。なにか用があって来たのでしょう?」
圭が促すと漸く、ソファに身を下した。それでも年齢にそぐわぬ伸びた背筋で緊張しきった様子は伺われた。
「お気楽にどうぞ。俺は圭君にとって年の離れた兄のようなものですから、貴女にとっても身内同然でしょう?」
湯飲みを三つ片手で持つと、もう片手には薬缶を持ち、少々雑な態度で茶を注ぐ。お客様対応で接したならば昔気質らしいハルのこと、更に緊張するには違いなかった。
「兄さんですか」
「えぇ、今では長瀬さんのご家族とも親しくさせて頂いているのですよ。
突然どうしたの? 一人でここまで?」
圭から聞いたのは、ハルは今、実の姉と一緒に千葉の実家で暮らしているということであった。隣に住んでいる姪一家の世話をしたり、近所の子供達に読み書きを教えているとも聞いた。理想的な老後には違いあるまい。
圭はハルと別れてすぐに隼人と出会ったため、勤め先は元々長瀬萬請負であったかのような手紙を送って安心させていたのだが、事件解決後、色々な新聞が報道したため、東京を離れていたハルにまで真相が知られてしまった。どういうことなのかと心配するハルが、上京しようとするのを圭が詳しい手紙で落ち着かせたのだった。隣県とはいえ、簡単に行き来できる距離ではない。
「姪がこの辺りに用があると申しますので、連れて来てもらいました。帰りは銀座のパウリスタで二時間後に落ち合う約束で」
「それなら安心だ」
「不躾を覚悟で参りました理由は、これでございます」
ハルはずっと大事に抱き締めていた風呂敷包みを机の上に置き、開いた。
菫色の和紙を貼り付けた帳面には、五年一、五年二、四年十と、少女らしい丁寧な文字が書かれていた。
「美沙子様の日記でございます」
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