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アイス
ハルをカフェ、パウリスタに送り届け、ついでに美味しい珈琲を楽しんでから戻った。ハルの姪にも挨拶したが、明るい幸せそうな婦人で、心の底から安心した。結婚もせずに麻上男爵家のために尽くしてくれたハルに、圭は勿論、両親も祖父母も感謝していた。圭にとってはもう一人の祖母であった。
わざわざ届けてくれた日記を開く。
四年の十は、四年生の二月中旬から三月末までの日記だった。その殆どがその日女学校であったこと、家族との関り、麻上家との関りであったが、二月の末に一人の転校生があったと書かれていた。美沙子らしくやはり、皆と同じ対応でいたようだが、三月十日に、両親と共に出かけた美術展でその転校生と偶然会う。
二人は互いに両親と離れ、二人だけで絵を見て回ったのだが、絵や花、音楽、詩など好みが似ていることに気付き、帰る頃には特別な存在になっていた。
『明日学校に行くのが楽しみで仕方がない。こんなに楽しみに思うのは初めてかもしれない。私は貴久子様の一番のお友達になれるかしら。明日勇気を出してこの気持ちを伝えようと思う』
少女の喜びと不安がその丁寧な四角い文字から溢れているように思われた。
『貴久子様からお手紙を頂いた。国語の教科書の一番好きな詩のページに、封筒が折れ曲がらぬように気を付けて挟み、帰ってすぐに読んだ。貴久子様も私と同じ気持ちを持って下さっていたと知って心が躍った。すぐにお返事を書きたかったのだけど、お母様がお裁縫の続きをしましょうと仰ったので諦めた。寝る前に落ち着いて書くことにしましょう』
そうして二人の楽しい女学校生活が始まったらしい。が、一週間と経たぬ内に、新城礼子、いや、旧姓瀬戸礼子が日記に登場した。
『礼子様に呼び出されて何事かと思ったら、貴久子様はアイスの娘だから近付かない方が良いと仰った。職業に貴賤はありませんから私達には関係ございませんと申し上げて先にその場を去った。どうしてあんなことを仰るのかしら』
『貴久子様がアイスの娘だと女学校内で噂になっている。ご本人も戸惑われているご様子で見ていてとてもお気の毒だ』
『母から貴久子様のお家のお仕事はお金を貸すことだけど、銀行のようなものだと伺った。貴久子様のご両親が仰ったそうだから間違いはない。そう礼子様に申し上げたら、嘘を吐いているに違いない。と。どうして疑うのかしら意地悪な方』
アイスは明治時代に流行った隠語である。圭は「金色夜叉」を読んで知った。
高利貸しと氷菓子という似通った言葉を使った洒落である。今では殆ど使われてはいないらしい。
礼子ほどあからさまではないが、貴久子と離れた方が良いと忠告する学友に、誤解を解こうと説明するが皆曖昧な表情を浮かべるばかりであったらしい。
それでも二人は着実に友情を深めていった。休日に青井家を訪ねることもあり、貴久子の二つ違いの姉とも親しくなったそうだ。
五月十日の日記では、庭の藤の花が六分咲きでとても綺麗だから。と、次の日曜日に招かれたとの表記があった。
が、この約束が果たされることはなかった。
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