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夏になると沖縄へ行く。 同居人は「もう一生分の海を見た」と誘っても付いてこない。……まあ、別の理由もきっとあるのだろう。多分、そちらが本当の理由なのだけれど。 空港から外に一歩出ると襲いくるムワっとした熱気と、肌を刺す鋭い日差し。温い海風が頬を撫でて行く。 空港前でハイヤーをつかまえ、毎年お世話になっている名護の民宿まで車の中でうとうととする。 開いた窓から風が通り抜け、空港を出てから滲んでいた汗が緩やかに引いていく。 少し伸びた髪が額を、頬を、首筋を優しくくすぐる。 「着いたよ、お客さん」 運転手の声で柔らかな泥の中にゆっくりと沈んでいくような微睡みから覚醒する。 「あ、ああ。ありがとうございます」 料金を支払い去りゆくハイヤーを見送った。 車の音を聞きつけたのか、民宿の中から女将が出てくる。 「あらぁ、柴さん、いらっしゃい」 戦時中は四国へ疎開していたという女将は、この辺りでは珍しく訛りがあまりきつくない。もう五十路だと言うが歳のわりには皺の少ない顔を綻ばせ、彼女は柴が足元に置いた小さな旅行鞄を手に取る。 「や、それは自分で……」 「ええんよ、柴さんお客さんだもん、うちにやらせてなぁ」 ニコニコ笑いながら、お茶が冷えてるから早く、と急かされながら敷居を跨ぐ。 遠くからざざ、と押し寄せる波の音が聞こえる。また、この季節がやってきた。暑い、夏が。 「お部屋はいつもとおんなじ。今年は他のお客さんおらんけん、ゆっくりしてってちょうだいな」 客間で冷えた茶を飲み、一息ついたところで部屋に案内された。二階の角部屋、窓から海の見える六畳の和室と板の間がついた小さな部屋だ。 「お夕飯、もし食べられるなら何時でもいいから仰ってぇな」 冷えた茶瓶を卓の上に置きながら女将が言う。 「ああ、いつもすみません」 「あらぁ、ええんよ」 毎年、初日には夕食を食べないことを知っている女将がにこりと笑った。 「でも、夜は道も暗いからなぁ、気ぃつけてくださいね」 「はい、ありがとうございます」 ゆっくりしてなぁ、と言い残し女将は部屋を後にした。 元日本帝国海軍上がり。毎年夏にやってきて、初日は夕方から翌日まで海で過ごす奇妙な独り身の男である自分のことを女将は何も言わず暖かく迎えてくれる。柴が語らないことは何も聞いてこない。良く言えば人好きのする、悪く言えばやや多干渉なこの島の人にしては珍しく、きちんと客の本質を見抜いている女将だった。 茶瓶から冷えた茶を注ぎ口をつける。畳にごろんと横たわり少しの時間目を閉じた。 ざざ……聞こえる。海の音が。同時に眼裏に眩いばかりに輝く南国の日差しが煌めく。ここよりもさらに南の、もう生きている間には決して行くことがないであろう、美しい碧い海と空を湛えた濃緑の木々が生い茂る、あの島の日差しが。 声高らかに歌う鳥の鳴き声で記憶の中に沈みかけた意識がふ、と浮かび上がる。何も持たないまま部屋を出ようとして、瞬間耳に飛び込んできた蝉のけたたましい声でちゃぶ台に置いたままの茶瓶へ目を向ける。……今夜も恐らく暑いだろう、大した荷物になるわけでもないから女将の好意に甘えて持っていくことにした。 出かける音が聞こえているだろうが、何も言ってこない女将に頭の片隅で感謝した。 足早に民宿の裏手にある坂を下り、一面に広がるサトウキビ畑を横手に海の方へ歩いていく。正午を過ぎて僅かに西へ傾いた太陽が背中をじりりと焼いた。 防風林の中、獣道のように僅かに開かれた道なき道を進み、再度坂を下る。林を抜けると白い砂浜が出てくる。裸足になり片手に靴を持ち熱せられた熱い砂を踏みしめる。目の前に広がる海の金波に目を細める。 知れず波打ち際へ駆け寄り、波の彼方へ目を凝らした。 知っている。現れるはずはないと。海に消えたことを。けれどあの碧を携えた海を見ると願わずにはいられない。いつか帰ってくると、帰ってきてくれと、あの日から何年経っても、みっともなく追い縋り願ってしまう。 足元で跳ねた波の飛沫が頬に飛び、その飛沫を上から流すように熱い雫が滴った。溢れた潮の雫は元の場所へ還っていくようにポツリと波の間に落ちた。 「……浩太」 還らぬ人の名を呟く。この島で育って、俺の唯一無二のペアとなった、愛おしい者の名を。
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