舌。

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舌。

制服に着替えて洗面所に向かい、鏡とニラメッコ。 キチンと整えていたネクタイの結び目に指を引っ掛けて、わざわざ着崩(きくず)す。 それから、栗色のサラサラした髪のササイなクセを、しつこくヘアムースでナデ付けて。 大きなアクビをもらしながら、ようやくカバンを肩に引っかけてかったるそうに階段を下りる。 開業医としてはかなり規模の大きい総合病院を営む父親は、昨夜おそくに緊急オペの呼び出しを受けてあわただしく出かけたきり帰宅した気配がない。 ホットヨガとボランティア活動に夢中の母親も、テニスクラブの仲間と日帰り旅行の予定とか言ってたから、早朝からめかしこんで、もうとっくに出かけたはずだ。 「……はよー、アニキ」 ダイニングルームに顔を出すと、食卓を前に姿勢よく椅子に腰かけた兄が、ダシ巻き卵と納豆と明太子なんぞをオカズに、ナメコとトウフと大根のミソ汁をそえた、ちょっと固めに炊いたのが好みの米飯をついばみながら、正しい日本の朝食を優雅に実践している最中だった。 「おはよう、真司。こんな時間に家を出て間に合うのか?」 「どーせ遅刻なんだから、アワテてもしゃーねーじゃん」 真司は、スリッパの足をだらしなく引きずりながらキッチンの冷蔵庫を開けた。 オレンジジュースのパックをそのまま口につけてゴクゴクと飲み、かわいた食道と胃袋にしみわたらせる。 わざとらしくハデなゲップをして兄のヒヤヤカな視線をひき寄せると、気まぐれな猫のようにマナジリの切れ上がった気の強い目をジロリと返す。 「つーか、アニキこそ、こんな時間にノンキにメシ食ってて平気なの?」 いつもなら弟より先に家を出て登校するはずの兄は、まだ制服にすら着替えておらず、紺色の麻のニットに、キナリ色の麻のパンツを身につけていた。 「創立記念日で休校なんだ」 「マジで? ズリィなー」 理不尽な非難をスルーして、敦司は、皿の上のダシ巻き卵をハシの先で綺麗に切り分けながらタメ息をついた。 「……入学したばかりなんだから、もう少し身シメて授業受けたほうがいいんじゃねーか?」 「んなこと言ったって……どーせ入試だってマグレで通ったんだぜ? マークシート得意じゃん、オレって」 ニンマリ笑って真司は、兄の横に近付き食卓に手を伸ばすと、食べかけのタマゴ焼きを指でつまんでムシャムシャと頬ばりながら言った。 「ガッコの勉強なんかするより、この野性のカンってヤツをみがいたほうが人類のタメになると思わねー?」 「……"人類のタメ"とは、恐れいるよな」 敦司は、クツクツと失笑した。 なんだかんだ言っても、多忙な両親の代わりとなって小さい頃から面倒を見させられることの多かった2歳年下の弟が、可愛くて仕方のない兄である。 「オマエ、このところ電車で通学してるのか?」 油で汚れた指をペロペロとナメている真司に手元のお手ふきを渡して、ふと思い出したように問いかける。 真司は、素直にそれで手をぬぐいながら、ふてくされたように唇をとがらせた。 「んー。……だってさー、こないだゲーセンの前で自転車(チャリ)盗まれちゃったしぃ。新しいの欲しいってオフクロに頼んだら、金だけ渡すとオレがオツリをごまかすから一緒に買い物についてくって言われてさー」 多趣味で外向的な若い母親は、息子と自転車を買いに行くヒマもなかなか作れないらしく、約束は延期されっぱなしなのだろう。 オアズケを食らった犬そのままの弟の表情を見て、兄は切れ長の怜悧(れいり)な目をフッと優しく細めてから、すぐに真顔にかえって言った。 「もしかして、公園を突っ切って駅前の通りに出てる?」 「うん。その方が全然 近いし……」 「やめとけよ。変質者が出るってウワサだぞ、最近」 「関係ねーよ。オレ、男だぜー?」 母親ゆずりの華やかな白い顔をクシャッとゆがめて、真司はハラを抱えてケラケラと笑った。 「アニキってヘンなとこで心配性だよなー。変質者なんか出てきたら、オレがフルボッコにしてやんよー」 威勢のいいタンカを残して、ダイニングルームのドアを出て行く。 「んじゃあねー、アニキー!」 と、玄関先から大きな声をかけて、鼻歌まじりに家を出た。
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