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シャワーを浴びてTシャツとジャージのズボンに着替えると、真司は、そっと足音を忍ばせてダイニングルームに向かった。
「いつの間に帰ってたんだ、真司?」
キッチンに立ってコーヒーをおとしていた兄は、気配に気付いて振り返った。
「声くらいかけろよ。ぜんぜん気付かなかったぜ」
「……ゴメン」
真司は、頭からかぶったバスタオルで泣きはらしたマブタを隠しながら、コクンと頭を下げた。
「父さんと母さんは、まだ帰ってないぞ。メシどうする? ピザでもとるか」
どこかへ外出でもしたのか、朝とは違うシャツとジーンズを身につけた兄は、いつになく元気のない弟の様子に目ざとく気付いて、ことさら穏やかに声をかける。
「……んー」
いつもなら大ハシャギでデリバリーのメニューをのぞきこむ真司だが、気のないアイヅチを打って崩れるようにソファに座り込んだ。
腰の奥にニブい痛みが走って、思わず奥歯をかみしめる。
カラダの内側が筋肉痛になったような、なすすべのない痛みだった。
兄の言うことを素直に聞かなかったせいだ。
だから罰を受けたのだと、いつの間にか真司は思い込んでいた。
「ゴメン……アニキ……」
敦司は、秀麗な白皙をくもらせて、
「どうした。何かあったのか?」
対面カウンターにマグカップを2つ用意して、いれたてのコーヒーを注ぎながら、さりげない口調で尋ねる。
1つには砂糖とミルクを加えて、さらに、マイヤーズのダーク・ラムを一滴づつ、これは両方に落とし入れる。
それから、両手に一つづつカップを持って、ダイニングテーブルに運んで真司の隣に腰かける。
「真司……」
バスタオルの上から頭をなでてやりながら、弟の顔を横からのぞきこもうとした。
「…………!」
真司は、無意識に身をそらして兄の手から離れた。
なぜだか分からないけれど、勝手に全身が総毛だった。
「……? ヘンなヤツだな」
「ゴ、ゴメン……」
大好きな兄の綺麗な顔に少し寂しそうな微笑みが浮かんだのを見て、真司は、罪悪感に胸がしめ付けられた。
敦司は、何も言わずにブラックコーヒーのカップを唇に運んだ。
だが、ひとくち含んだとたん、小さく舌打ちをもらして顔をしかめた。
「…………っ」
ガチャンと音を立ててテーブルに戻されたカップの中で、黒褐色の液体がアワテふためいたように水面を波だたせていた。
「アニキ……?」
真司は、タオルの隙間からいぶかしげに首をかしげた。
「いや、……舌に口内炎ができたのをウッカリ忘れてた。……熱いのは浸みるな」
「アニキがウッカリなんて、珍しいね」
「そうか? ……そうだな」
敦司は、なぜかフッと面白そうに鼻を鳴らすと、ソファの背もたれに片腕を乗せて真司の方に体を向けた。
「何があったんだよ、真司?」
真司は、肩が跳ねあがりそうになるのをこらえて、温かいカップを手に持った。
「別に……なんもねーよ」
ヒザの上に引き寄せると、甘く芳醇なラムの風味の溶け込んだ香ばしい湯気が鼻先をくすぐった。
勝手に震えて、こぼしてしまいそうな気がしたので、両手でシッカリ包み込むようにカップを支えた。
敦司は、深い夜の海を思わせる深遠な闇色の瞳で、そんな真司のしぐさをじっと見つめてから、身を乗り出して顔を近付けた。
「……オレには何でも話してくれると信じてたけどな、真司」
「だ、だから……別に何もねーって言ってんじゃん! ……んなことより……朝、アニキが言ってた話だけど……」
「…………?」
「あ、あの……公園に変質者が出るっていう……」
「ああ、あれか。今朝、容疑者が逮捕されたらしいな」
「け、今朝……?」
「さっき、テレビのローカルニュースでやってたぞ」
敦司は、クスリと失笑をもらした。
「なんだよ、けっこう気になってたのか?」
「べ、別に…… そんなんじゃ……」
真司は、青ざめた顔をそむけた。
――すでに変質者は逮捕されていただって?
だったら、自分を凌辱した男は、いったい何者……?
言い知れぬ戦慄と不安で頭がクラクラする。気が遠くなりそうだった。
目隠しをした状態で背後から犯されたから、結局、顔も背格好も確かめることはできなかった。
劣情を吐き出した男が背中から離れたときには、真司は放心状態のまま。どうにか自力で両手首の拘束と目隠しを外した時には、男の姿は影も形もなかったのだ。
震える手で着衣を整えてから、洗面台の蛇口をいっぱいにひねって、そこに飛び散っていた自分自身の白濁を洗い流すと、粘液に汚れた下着のヌルヌルした感触に吐き気をこらえながら、シビレたような重い痛みを抱え込まされた下肢を引きずるようにして、そのまま自宅に戻ってきたのだ。
すべてを兄に打ち明けてしまいたかった。
――もう大丈夫だから安心して、全て忘れてしまえ……と、そう言って微笑んでもらえたら、それだけで、こんな苦悩は一瞬で消え去ってしまうのに。
でも、薄汚い痴漢に犯されて汚されたことを兄には知られたくない。
兄が可愛がってくれるのは、無邪気で手のかかる天真爛漫な弟なのだ。
真司は、それを知っている。
だから、得体の知れない男に力づくで凌辱されながら、……苦痛から逃れるために必死で快感だけを追い求めているうちに、ついに自分から腰を振ってしまったような、……そんなミダラで汚らわしい正体を絶対に知られちゃいけない。
知られたら、もう、兄は今までのように甘えさせてはくれなくなるから。
きっと、そうだ。
……だから、絶対に言っちゃいけない。
真司は、ギュッと唇を噛みしめてうつむいた。
だから、兄の秀麗な美貌に浮かんで消えた酷薄な微笑にも気付かなかった。
「ウソをつく悪いネコは、一生 首輪を外してやらねぇぞ?」
敦司は、長い足を組んで姿勢を正面に戻しながら、からかうようにつぶやいた。
だが、真司の耳にはハッキリ聞こえなかった。
「なんか言った、アニキ?」
「オマエの野性のカンとやらも、大したことねーな、……って言ったんだ」
「…………?」
敦司は優しく微笑むと、少しぬるくなったコーヒーをもう一度 口に運んで、また柳眉をしかめた。
「クソッ、 ……やっぱり、浸みるな」
そう小さくボヤいて、端正な唇を自嘲的にゆがめた。
END
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