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絶対性理論
「しつけーんだよなぁー、あのネエちゃん……」
舌打ちとともにいまいましく吐き捨ててから、真司は、派手な柄シャツのソデで乱暴に唇を拭った。
イラダチをぶつけるようにドカドカと足音を廊下に響かせて、リビングルームのドアを威勢よく開閉する。
壁に手を叩きつけるようにして照明のスイッチを入れる。
暗闇が一転してパッと明るくなる。
と同時に、誰もいるはずがないと思っていた室内に照らし出された人影を見つけて、思わずギクリとアゴを引いた。
「……なんだ、アニキ。帰ってたのかよ?」
「なんだとはご挨拶だな。……おかえり、真司」
「明かりもつけねぇで何やってんだよ。ビビらせんじゃねーよ」
「…………」
ソファに深々と身を沈めて、いつになくボンヤリと無意味な倦怠のひとときを味わっていた敦司は、久しぶりに吸うタバコをくわえていた形のいい唇をかすかに開いて、また閉じた。
医学部の実習室で培養していた放線菌が、想定の範囲をはるかに逸脱した未知の成分とおぼしき物質の分泌を示したので、どの条件が影響して突発的な変異が起きたのか考えられうる全てのケースを再現して果てしなく実験をくりかえしたものの同様の変化はいずれにも表れず、次のアプローチを試みようとした頃に、最初に培養した菌がアッサリ全滅してしまった。
それは、もしかしたら不治のウイルスを抑制するのに有効な特性を持った抗生物質だったかもしれないし、あるいは、砂漠の緑地化に大きく貢献できるような画期的な園芸飼料に転用できる成分だったかもしれない。
今となっては詳細な検査をする前に検体がアトカタもなく死滅してしまったから、もはや知るすべはないが。
――なあ、真司……。どっちにしても、お兄ちゃんは、いかにタグイまれなる頭脳をほこるとはいえ、一介の医学生時代にペニシリン以来の画期的な抗生物質を発見した日本人として学会誌の表紙を飾ることになるかもしれないなんて、ほんの少しでも期待にときめいちゃったりした自分が恥ずかしいんだよ。
家人が出はらっている無人の自宅に、夜遅く数日ぶりにヒッソリと帰宅して、こうして静かに目を閉じながら、なんならいっそのこと、死滅してしまった放線菌は、まったく培養する価値のない無益なシロモノだったか、さもなければ、CIAやモサドなど世界中の情報機関が血相を変えるような恐るべき細菌兵器としてしか利用価値のない極悪非道なシロモノだったに違いないから消滅して良かったのだと、妄想に近い思い込みで、どうにか自分を納得させようとしてた最中なのだ。
――そんな説明したところで、どうせオマエは「ふーん」と軽々しく鼻を鳴らしてオレの話をスルーしちまうんだろ? だからお兄ちゃんは、余計なことは言わないで黙ってるんだ……
と心の中でボヤきながら、深々と肺に吸い込んだ煙に吐息をまぎらわせて吐き出す。
「らしくねーぜ、その不精ヒゲ。……服もヨレヨレじゃん!」
兄の沈黙を気にもとめず、真司は、挑発的な猫を思わせるマナジリの切れ上がったトビ色の大きな目を、さもイヤそうにしかめた。
「そうか? ……そういえば一週間ばかり着替えてないな」
なにしろ、大学の研究棟に昼夜こもりきりだったのだから。
「ゲッ! ……最悪」
「シャワーは浴びてたぞ、毎日」
汚いモノでも見るような弟の目つきに、兄は物憂いツブヤキを漏らす。
さすがにクールでタフが売りの男も、秀麗な容貌が疲労と落胆で憔悴していた。
大理石のような肌にマバラなヒゲも伸びている。
洗練されたスマートな容姿としぐさが常の彼には、およそ似つかわしくない姿だった。
だが、そのために怜悧な白皙には荒々しい苦味がプラスされて、浮かんだ隈のせいで陰影が深まった切れ長の目元は、いつもの涼しげな理性はナリをしずめて代わりに凄艶な鋭さだけがムキダシに、研ぎ澄まされて見える。
生まれたときから同じ屋根の下で共に暮らしてきた真司が、初めて見る兄の新しい横顔だった。
めったにお目にかかれない顔貌を今のうちにジックリ拝んでおこうと思ってジロジロと見つめていたのが、いつの間にかドキドキと胸を高鳴らせながら魅入ってしまっている。ハッと我に返った真司は、そんな自分にムシャクシャして。
眉尻の上がった勝ち気な柳眉をケンノンにしかめながら、兄からクッション1つ分だけ離れた同じソファのスミにドスンと腰を落とす。
「よぉ、アニキ! その煙草、オレんじゃねーの?」
「ああ? トイレに放置してあったから、もらったぞ」
敦司は、くわえタバコからユラユラと立ち昇る紫煙を浴びて、片方の目をわずかに細めた。
「放置じゃねーよ! オヤジに見つからねぇように、棚の奥にしまっといたんだろーがよぉ」
便座に腰かけての一服は、一般的にヤンキーという呼称でカテゴライズされる若者たちにとって、最も心安らぐ憩いのヒトトキだったりするものだ。
「みみっちいコト言ってると、人間までみみっちくなっちまうぜ?」
敦司は、むしろ自分自身を揶揄したように、自嘲的に笑った。
それから、長くなった灰をテーブルの上の来客用の灰皿に落としてから、タバコをつまんでいるその手を上げて親指の先で気だるそうに目尻をこする。
真司は、片方の眉だけケゲンそうに吊り上げて、見慣れぬ兄のシグサを見つめながら横から手を伸ばすと吸いかけのタバコをかすめ取った。
すかさず、その手首をつかまえた敦司は、弟のソデについた赤いシミに目ざとく視線を止める。
「また、ケンカしたのか?」
真司は、兄の手を邪険に振り払ってタバコをくわえた。
「……血じゃねーよ」
それがケンカの返り血ではなく、おおかた、バイト先のキャバクラでレギュラー出勤している売れっ子キャバ嬢の唇から転移させられた口紅の跡だろうと察した敦司は、乾いた声を吐き捨てる。
「悪趣味な色だな」
「明日、店で会ったら伝えとくよ。オンナの送りオオカミってコワいのなー。あーゆうのを肉食系ってゆうのかねー?」
真司は、真っ白いキレイな歯並びを見せつけるようにして笑った。
敦司は何も言わずに、真司の口から短くなったタバコを奪い返し、灰皿に無造作に放り捨てる。
パラパラと散った灰が、テーブルの周囲の絨毯を少し汚した。
「ご機嫌ナナメだね、アニキ」
真司は、ソファの上に上体をかがめて、獲物を狙う野獣のように姿勢を低くしながら、兄の顔を下からのぞき上げる。
「……欲求不満じゃねーの?」
うながすように顔をかたむけて、意味ありげにニンマリ微笑む。
意志的な柳眉と気の強いマナザシが、本来は中性的ともいえる繊細な造形の白皙をシャープに引き立てる。
「疲れてるんだ。……カンベンしろよ」
およそ他人には聞かせたことのない泣き言をついに吐きだした敦司の眼前に、挑発的なトビ色の瞳が近付いていた。
細い三日月の形に歪んだふっくらとツヤやかな唇が、敦司の乾いた唇をふさぐ。
抗しがたい甘美な舌が口腔に侵入してくるより先に、敦司はサッと顔を引いて避けた。
「……くだらねぇバイトも遊びも、もうシオドキじゃねぇのか? もっとマシなオモチャを探せよ、真司」
「っざけんな! オレをさんざんオモチャ扱いしてきたのは、アニキの方だろ? オレがこんなんなったのも、みんな、アニキのせいだかんなっ!」
真司は、立ち上がりかけた兄のシャツのエリ首をつかんでソファに引き戻し、熱い息が届く距離までグイッと顔を引き寄せる。
「気になんねーの? 悪趣味な口紅つけた女とオレがナニしたか」
ウロンに声を低めるが、ひどく傷ついた表情があからさまだった。
敦司は、降参だというようにフッと首をふって微笑み、真司の肩に額を乗せる。
「妬かせたいのか、オレを?」
真司は、耳の先を赤く染めながら面食らった。
「ちっ……ちげーよ! クソアニキ!!」
「オレを試そうなんて思わなくていいんだ、オマエは。嫉妬だとか何だとか……そんな陳腐な衝動をバネにしなくても、オレはいつでもオマエに本気でいられるんだから」
甘やかなササヤキを吹きかけながら、真司の首筋に唇をはわせる。
「……っ! ウヌボレてんじゃねーよっ……ヘンタイの……クセに……っ」
感じやすい肌を熟知した巧妙な舌の愛撫に、いともたやすく濡れた喘ぎを引き出させられながら、真司は、抗うように身をよじった。
「ヒゲが当たって……くすぐってぇんだよ……っ」
「シンセンな刺激でいいだろ?」
大きく開いた真司のシャツの胸元に、不精ヒゲをまとったアゴをわざと擦り付ける。
柔軟に引き締まったしなやかな肢体を、そのままソファに押し倒しながら。
「カケヒキは無意味だ。……血のツナガリは、絶対に不変なんだからな」
「意味わかんねー……クソアニキ……」
灰皿に燃え残ったタバコの煙が未練がましく目元につきまとってきたので、真司は、手の平でマブタを覆った。
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