第七話 温かい手すり

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週に一度は少し早めに行かなければならなかった。 放送委員として、朝の準備をするためだ。いつもと少し違う風景も、緊張感があった。 まだ校門は全部開いておらず、校庭ではサッカークラブが朝の練習をしていた。 校舎への道を、続いている花壇の横をゆっくり歩きながら、辺りを見回していた。 放送委員の当番の日は生徒の入口ではなく、教員または来賓入口から二階の放送室へ上がっていくことになっていた。 「おはようございます。朝の放送で来ました」 まずは職員室へ挨拶に行くルールになっていた。放送室の鍵ももらう必要がある。 「おはよう。杉本はまた朝の放送か?」 この生田南小学校は昨年に出来た新しい学校で私たち六年生は昨年、五年生の時からここに通っている。 この場所は戦前には海軍の司令基地があったらしい。太平洋戦争の時には無線で司令を出していたと父から聞いていた。長い間、県の公園となっていたのだが、一部を開発して小学校などの施設を造ったのだ。 新しい校舎とはいえ、この時間はほとんど誰もいない。 放送室は来賓用入口から上がってすぐの所にあるのだが、静まり返った廊下や階段は気味が悪い。 放送室のドアを開けると ツーン と鼻を突く臭いがする。薬品の臭いだ。 鞄を椅子の上に置き、黒いカーテンを開けると校庭が見える。もう11月なのにサッカークラブの人たちは半ズボンで練習している。青いジャージを着た、背の大きいなの人は担任の山野先生だ。 ここは夏でも涼しい。今日みたいな天気の良い日でも寒く感じる。 時間は7時35分。あと少しで登校の放送アナウンスをする。いつものことだが緊張する。 ふーん こういう時にトイレに行きたくなる。 あーどうしよう 朝早くの学校のトイレは少し気味が悪い。まだ新しい校舎なのできれいなのだが、やはり静まり返った廊下とトイレは怖いのだ。 仕方なく放送室を出た。 出ると左側はさっき来賓用入口から上がってきた階段、右側は使われていない教室や資料室がある。トイレは右側の先、手洗い場の横だ。 ゆっくりと歩き出した。左側の階段をちょっとだけ覗き込み、誰かが見ていないかを確認した。大人の人の気配があった。多分、先生の誰かだろう。 そのまま右に歩き出した。扉が閉まった、静まり返った教室を横目で見ながら、資料室の前を通る。資料室には昔の物が展示されている。この辺りは昔から稲作が盛んだったことから、臼や杵が展示されている。 私が一人になりたくないのにはわけがあった。見たくないものが見えるからだ。 母も叔母も祖母もそうだったようだ。 「あいつらはそこら辺りにいる。気づかないふりをしなさい」 叔母は吊り上がった、怖い目でそう言った。いつも優しい彼女だったがそれを話す時は異常とも言えた。 それは突然やってくる。 資料室と手洗い場の前を過ぎると急に暗くなる。早朝、この二階には生徒がいないため、節電しているのだ。 冬の校舎の廊下は寒い。 キュッキュッ 自分の上履きの音がなる。 入ると目の前にある鏡を見た。じっとは見れない。 何もいない。 便器に着くと、すぐ流すボタンを押した。何か音が欲しかったのだ。 早く行こう 心の中でその呟き、すぐにトイレを出た。その暗い場所から出ると、手洗い場から朝日が射している。 「ん、おはよう」 年配の学年主任の先生が階段辺りにいて、声をかけてくれた。 今日は大丈夫 怖く感じる日でも、何もない時もある。しかし忘れていると突然やってくるこどもある。 放送室に戻ると友達が来ていた。 「杉ちゃん、どこに行っいたの?」 彼は真志村。ちょっと幼稚でいつも私を慕っていた。彼が放送委員になったのも私がいたからだ。 「今日はこれ運んでって、山野先生が」 「わかった、わかった」 真志村は段取りは苦手だ。言われたことをすぐにやろうとする。 「杉ちゃん、山野先生が」 「朝の放送があるから。終わってからだよ」私は強めに言った。 「うん」 真志村はその録音機の入ったケースを降ろした。今日はマラソン大会の予行練習がある。1時間目からのため、私たち放送委員だけが朝の掃除をしなくて良いのだ。 朝の軽快な音楽をかける。そして少しずつ、そのボリュームを落としていき 「おはようございます。今日は11月25日、月曜日です。みなさん、朝の掃除を頑張りましょう」 と、簡単な放送をして、また音楽のボリュームを上げる。 その後はしばらくすることはない。 「杉ちゃん、トイレ行きたい」 真志村は同じ六年生とは思えないくらいに子供っぽい。 「行けばいいよ」 また冷たい言い方になった。真志村はクラス内でも、いつも馬鹿にされていたが、父親がこの辺りでは有名なヤクザだったため、いじめられることはなかった。 真志村がトイレに行くと1人だ。掃除の音楽が小さくなっている。 窓の外を見る。 もう誰もいない。みんな各クラスで朝礼をし、掃除をしているからだ。 放送器具の前には大きなガラスがある。その向こうは視聴覚室になっていて防音設備がある。いつもは入る用事が無いので、内側から黒いカーテンを閉めている。なのでそのガラスには放送している自分が写る。 椅子に座ってボーっとしていた。1時間目は算数だ。あまり好きではない。 ふと、ガラスに何かが写った。 白い何かだ。 真志村?彼は白い体操服で来ていたのでその思った。 ただ真志村はトイレに行ったはずで近くにいるはずがない。 あれが来た 叔母の言葉を思い出す。 「気づかないふりをする」 そう、何か邪悪な物を感じた時は、気づかないふりをするのだ、いつも自分にそう言い聞かせていた。 じっと動かないようにする。 何か、その状態を変える、音や人が現れるまで、じっと気づかないふりをする。 ドン 放送室のドアが閉まる音がした。外扉の音だ。 「トイレ、掃除中だった」 真志村はそう言って、足をもぞもぞとさせた。 「してないの?」 「うん、一緒に来て」 人がいっぱい居ては恥ずかしくて、一人では、トイレで用を足せない、そのいう意味だ。 「もう」 私は少しふてくされたが、真志村が空気を変えてくれたことと、そこから出してくれたことの安堵感にいた。 真志村とトイレに行き、戻った時には掃除の時間も終わる頃だった。 「みなさん、朝の掃除の時間は終わりです。掃除用具を片付けて、席につきましょう」 そう放送すると、ボリュームをゆっくり落として、音楽を切った。 これからはマラソン大会の予行練習のために校庭にいろいろ準備しなければならない。 机、椅子、テント、スタンドマイク、放送器具。 真志村は放送器具の入ったケースを持って来るようにと担任の山野先生に言われていた。 「杉ちゃん、これ」 真志村はそう言うと、小学生には少し思い、そのケースを指さした。 私たちは自分たちのランドセルを持って登校している。1時間目は算数だから、あまり出たくないのだが、2時間目から始まるマラソン大会の予行練習のため、一度、校庭に行ってから、自分の教室に戻る。 私はランドセルを右手に放送器具のケースを左手に持ち、放送室を出た。 「まし、鍵閉めて」 そう言って、ランドセルを持つ右手の人差し指に掛けた鍵を見せた。 「うん」 そう言って、真志村がその外扉を閉めようとした瞬間、何か白くて温かい物が私の横を通り過ぎた気がした。 そのまま、階段を降りるが右手にランドセル、左手に重いケースのため、バランスが悪い。 私は階段の途中に両方を置き、右側にある手すりに手を置いた。 はっ っとした。私は確かに手すりに手をやったはずだ。 しかし私の手のひらの感覚はそうではなかった。 手だ。 誰かの手の上に自分の手を乗せた感覚なのだ。 その手は私の手より小さい。そして何より少し温かい。 背中がすーっと寒くなる感じがした。置いた右手は動かせない。 次の瞬間、その温かい小さい手は私の手首のほうへ少し動いた。それと同時に私の指先は冷たい手すりに当たり、ヒヤッした。 そうだ、これだ さっき、放送室のガラスに写った物はこれだ。 ドアを閉める時に感じた物も同じだ。 私は動けなくなり、少し震え出した。その手は私の下にある。同じ方向を向いているということは それは私の後ろにいる。 また少し、その手は私の手首のほうへ動いた。 右の首すじ辺りにも温かい何かを感じる。 小さな子どもだ。 遠くで誰かの声が聞こえている。しかしその声はどんどん遠くなっていく。 マズい 叔母の言葉が何度も何度も頭をよぎる。 「気づかないふりをするの」 しかしその言葉もどんどん小さくなっていった。 チン という音で目が覚めた。ガラスの割れるような音だ。 「杉ちゃん」 真志村が横に立っている。 「ああ」 私は小さく返事をすると辺りを見回した。保健室にいたのだ。 あの時私は突然倒れて、真志村が私を呼び続けていたらしい。短い時間だったが、何度も何度も真志村が私を呼んでくれたおかけで、私はあちらの世界に行かずに済んだのだと思った。 このことがあり、私は担任の山野先生に事情を話した。彼は解せない様子だったが放送委員はやめることになった。 しばらくして私は職員室に入ることがあった。その壁には昔のこの辺りの写真が飾られていた。 その中に当時の子供たちが、戦時中に軍服を着た兵隊と一緒に撮った写真があった。 一番右の兵隊と一緒に居た子は白いシャツを着た、おかっぱ頭だった。 兵隊におぶられて、肩から小さい手を出している。 私の後ろにいたのは この子だ。 当時、この辺りは無線基地であったため、酷い爆撃を受け、焼け野原になったようだ。 まだ自分が死んだことに気づかないのかもしれない。
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