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魔法のようだ。その瞬間の気づきを、今も覚えている。
幼い自分は、それまでテレビから流れる音、街中に溢れる音が、どこからやってくるのかを気にしてはいなかった。
だから、広場に置かれた鍵盤を叩いてみても、それがそうだとは気づかなかった。
雑踏の中。ぽっかりと空間ができていた。行き交う人々が、思わず足を止める。
今、目の前で、天使が奏でる音楽。
その音はすべて、黒い曲線を描く一台のピアノから紡がれている。
細い指先が鍵盤を踊る。
高く澄んだ音色が、空と混じり合う。
真珠の粒が首飾りに変化して。
ひとつの世界を構成する。
万雷の拍手が、辺りを包んだ。
演奏が終わったんだ。いまだ残る陶酔。自分は思わず駆け寄った。
「すごい。すごい。ありがとう!」
世界のひみつを知ってしまった。何かこの気持ちを形にして伝えたい。そんな使命感で、自分は両親にUFOキャッチャーで取ってもらったばかりのぬいぐるみを、彼に差し出した。
「bravo。そういう時はbravo」
「ぶらぼー!」
教えられた言葉を早速使うと、黒髪が揺れる。
ちいさく笑って、ぬいぐるみを受け取ってくれた。
「ありがとう」
「葵衣くん」
彼が声に振り向いた。ピアノの蓋を閉め、足元の鞄を抱える。彼によく似た人が手を振っていた。
足を止めていた人達が、ひとときの夢から醒める。日常に帰っていく世界の中で、クリアな声が私の耳に届いた。
「またね」
人の波間の向こう。確かにぬいぐるみの腕が、バイバイするのが見えた。
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