思考者の鏡

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 窓の外に配置されたビルの明かりが壮太の顔を定期的に照らす。    目を閉じていても、光が瞼上を凪いでいくのを彼は感じる。    窓は全て、新春の硯を覗き込んだかのように黒い。    車両内が、やけに明るい所為で、車窓には彼の姿が映っている。    彼はふと、窓を見つめる。    そこに映る姿は、身支度の際に洗面所の鏡面に映る姿とは、少し違うように、彼は感じる。    自分以外の人間が存在する空間において自分を見つめることと、ただ家の鏡を見ることは彼の中で明らかに違った行動なのだ。    自己は、他者の存在によって、はじめて知覚される。という話がある。    しかし彼は、他者がいることによって、自分の振る舞いが変わるだけの話だと考えていた。    さすれば、他者によって自身の行動が変化することになるが、その場合、どれが本当の自分なのか、    自分が何者か、という問題は思春期において、頻繁に脳内で反響する問いである。    大人になるにつれて、人々はその問題を乗り越えて、成長していくらしい。    そんなことはない、と彼は思う。    自分が何者かは、死んでも分からない。中学生から成人の間に決定されるものではない。と彼は脳内で主張する。    乗り越えたのではなく、考えないようにしただけなのだ。    もちろん、無視をする、というのは重要なスキルだ。    しかし、嘘はよくない。    乗り越えた、成長した、と虚構の胸を張るのもよくない。    自分が何者かについて、考えること、その難解さの要因は、客観性が足りないからである。    自分の内面を一番よく知っているのは、自分だが、同時に何も知らないのも自分なのである。    これは、何も哲学的な話ではない。    他者から見た自分のことは、知ることが難しいという話だ。    友人や家族に、自分の印象を聞いてみたとしても、そこで得られる返答は、オブラートに包まれているかもしれないし、控えめに言っているかもしれないし、逆に大げさに自分のことを形容しているかもしれない。    自分を知るのは、不可能なのだ。    しかし、分からないことと、そもそも考えないことでは、次元が違う。    どうせ分からないから、考えないのではない。    どうせ分からないというのは、先人が思考した結果を鑑みて自分で判断した推測に過ぎない。    自己決定の理由を他人へ過剰に委ねている。    彼は自分を物理的に見つめたことで、精神的にも自分を見つめるに至った。    彼はこんな考察というか、自己推察を他人に話したことがある。    しかし、その際の反応は、冷ややかであった。    そんなこと考えて生きるの、しんどそう、などと憐れみの目を向けられたのであった。    逆なのだ。そんなことを考えていないと、落ち着かない。だから考えているだけなのに、彼はそう脳内に反響させつつも、憐憫に満ちた目線を受け入れるしかなかった。    そんなことを懐古しながら壮太は電車に揺らされていた。      彼は鞄から、一冊の本を取り出した。    学生時代から愛用しているブックカバーをつけた本を隣に座っている人の目に読んでいるページが映らないように、顔の前で本を開いた。    本とは言語化された趣味であるため、他人にそれを見られるのはもちろん、もしかするとその本を見せることで「僕はこういうものが好きです」という意思表示をしているのではないかと、他人に気取られるのも鼻持ちならないのだ。    実際そう思われているかどうかは問題ではない。    確かに彼自身は、他人の読んでいる本が気にならない。    だったら、君も本で顔を隠していないで、堂々と読めばいいじゃないか、と思われるかもしれない。    しかし、そんなことを言われる度に彼は、「他の人が皆んな僕と同じ思考を携帯しているとは限らないじゃないか」、と心の内で返事していた。    しばらく彼は読書に耽っていたが、やがて左手から裏表紙が離れ、読み終えた。    心の中で、   「この本、主人公の思いを惜しみなく表現していてすごく面白かったなぁ」と呟いた。    すると壮太の耳に、羽音の様な声が聞こえてきた。    それは   「その本、主人公の気持ちが丁寧に描写されていて面白いよね」    という声だった。    隣人が盗み見て、話しかけてきているのかと、彼は思ったが、    両隣には誰もいなかった。
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