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「なあ、今日志村来てねえんだな」
東は何も知らないという体を装うような声音で、そう視線を志村の席へと投げ掛ける。
「あんなことすりゃ、そりゃ……」
最後まで言える勇気もなく、蚊よりも小さな蚤くらいの声でそう呟くと、東は俺のその言葉を待っていたように、一層口元を綻ばせた。え、なに? あんなことって? お決まりの口調で東が右耳を俺に寄せてくる。鬱陶しいを通り越して、もはや嫌悪感でぞわぞわと背筋が粟立ってくる。
「最低」
「誰が?」
俺と同じ小さな声で、しらっと東が首を傾げる。東の美しい栗色の前髪がさらりと流れると、この男の本性も知らない女子が背後で「かっこいい」と呟く。それが妙に俺の神経をカチンと打ち鳴らす。
「もう戻れよ」
「今日はこの席が俺」
「ふざけんな。戻れ」
「礼は俺に冷たいよね」
そう言いながら投げ掛けられる眼差しに込められる微かな威圧感に、身体に掛かる重力が、ぐっと重くなるのを感じる。身体の中の臓器が圧縮されるように苦しくて、俺は抵抗するように奥歯を噛締めて彼を睨みつけた。しかし、俺の放てるグレイなんて、真性のドムに敵うはずがない。
クソが……っ。
言葉には出さずに頭の奥で吐き捨てる。
俺は睨みつけ、東は微笑み、全く違う表情を突き合わせていると、不意に教室の中が騒めいた。思わず東との間に張った緊張の糸をたるませて、力を抜くと、
「え、やば」
「えぐ~」
「グロじゃん」
そんな囁きが、四方八方から騒めきの一部となりながら押し寄せてくる。俺は顔を上げてクラスメイトが注目している方へと視線を投げた。
「あいつ、ヤバいね。ウケる」
東は俺が言葉を発するより先に、そう言って微かに笑った。それは滑稽だと言わんばかりの、明らかな嘲笑だ。俺は東の咽喉で震えるような笑い声を聞きながら、ただ瞠目して、教室の前扉から入ってくる彼を見つめた。
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