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志村はそう身勝手に宣言した。反論しようとするのも束の間、俺の手首を壁に縫い付けるように拘束すると、そのまま体を寄せて、唇を重ねてくる。勢いの割に柔らかく重なり、優しさに満ちたキスは、抵抗する気も失せる程初々しい。
嫌なのに、嫌だと言い切れないはっきりしない感情に、自分で腹が立った。ふいに脳裏を過る、清算できずにいる過去の記憶が、水の膜を被せたような曖昧さで、浮かんでは消えていく。皮膚の所々に蘇る痛みが、心臓を掴もうとして、掴み損ねて消えて行った。
「服を、脱いで」
一字一句丁寧に告げる志村の律義さを見つめた。薄暗い部屋の中、ブラインドの隙間から白く差し込む日が、淡い線となって、床に落ちていた。志村の指先が、そろりと俺から離れていく。バランスを崩す事を恐れているように、ゆっくりと。
手が離れ、唇が離れ、身体が離れると、俺たちはほぼ同時に深呼吸をした。
「全部、脱いで」
身体の中心がむずむずと、くすぐったいような、ざわつくような居心地悪さに揺れる。従ったら解消されるという事が、火を見るよりも明らかに、俺の内側で燻っている。
抗いようのない本能が、志村の声の期待に応えたがっている。
――全部、脱いで。
その言葉を、頭のなかに残る志村の声音を使って、もう一度身体のなかで繰り返す。
「脱げ!」
ふいに何の前触れもなく、後ろから鈍器で殴られるような声が蘇った。
弾かれたように、はっと顔を上げると、志村がじっと静かな眼差しで俺を見つめていた。彼の頬に当たる、午後の白い光が、治り切らない彼の頬の赤紫の痣を照らしていた。――俺が、付けた傷だ。
直感的にそんな事を思い、俺が俯くと、
「無理なら、ちゃんと言って?」
優しく問いかけられ、志村の手が俺の肩に触れた。勢いよく掴まれるのとは違い、優しさを持った指先は、ただひたすらに、ぬくもりしかない。
――志村はあいつじゃない。
そんな当たり前の事を、頭の中で呟くと、俺は志村の手を肩から下ろし、
「できる」
と呟いた。
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