マリッジ・ディープブルー

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アンナと初めて連絡をとってから数日も経たぬ内に、私は彼女に告白をした。無論これまでの人生で初めて告白であったから、本来ならばしかるべき準備と対策をすべきところなのであるが、私はそうした一切の手順を省いてとにかくアンナに想いを伝えたのであった。もうとにかく舞い上がっていたのだ。何がどうなっているのかさっぱり思い出すことも叶わぬが、しかし告白は成功して、私はアンナと付き合うことになった。 これは私にとって思いがけないことであった。 私はとにかく告白することに夢中であったから、その先のことについて全く想いを巡らせていなかったのだ。告白して、成功したら、付き合うことになる、という図式を全く理解していなかった。告白が告白で完結するのであれば、どれほど救われただろうか。しかし現実はそれほどシンプルではない。自ら望んだこととはいえ、私はアンナと付き合わなければならなくなった。 私とアンナは週末ごとに出かけた。こうなった以上、半ば義務的にでもデートをしなければならない。休日の最も息をつける時間の一部を誰かと過ごさなければならないというのは、私にとって耐え難いことのはずだった。しかし、不思議とアンナと過ごす時間は短く感じた。私たちは白のデミオに乗って、ちょっとした観光地やショッピングモールに赴いた。どこも本来の私には不似合いな場所であったが、アンナと一緒にいると少しだけ周りの風景に溶け込めるような気がした。運転中、彼女はブルートゥースを繋いでスマホから音楽を流してくれた。私は車の中で音楽を聴く習慣がなかったので、とても新鮮に感じた。彼女はエド・シーランやブルーノ・マースなど洋楽を好んで聴くらしい。選曲はいつもタイムリーで、まるで魔法のように私の感情を操った。 「90マイルって何キロなんだろう?」 エド・シーランのカッスルオンザヒルを聴きながら、アンナが言った。 「1マイルが1.6キロくらいだから、150キロ弱になるんじゃないかな。」 「それは速いね。」 彼女はそう言って前を向いた。90マイルには到底及ばないが、それでも私は猛スピードで何処かへ向かっている気がした。ハンドルを握っているのは私なのだけれど、私はその行き着く先を知らないでいる。 私は親友の敦彦に久しぶりに連絡をとった。少し前に子供が産まれて、敦彦はいかにも父親という感じがした。 「いや実際大変だよ。仕事から帰ったら洗濯物を畳んで、子供の相手をして、夕食だろ。食事だって子供につきっきりで、味わって食べてる暇なんてないんだから。子供を寝かしつけて、やっと息をついた時には妻と一緒にぐったりしてるよ。」 そう言う敦彦の声は楽しそうだった。敦彦の話を聞いていて、私は何だか懐かしいような気持ちになった。それは敦彦に対してというよりは、敦彦の話す"家庭"というものを懐かしんだのだと思う。私とて子供の頃には家庭があったのだ。私は自分の生まれ育った家庭がそれほど好きではなくて、大学進学を機に家を出た時は清清した気持ちになったものだが、何がどうであれそれが私の育った家庭であることに違いはなかった。しばらく忘れていたが、私は最初から孤独だった訳ではないのだ。 「まあお前も結婚したら分かるよ。」 敦彦はそう言ったが、それでもやはり私は結婚する気はなかった。例えどんなに懐かしかったとしても、私は家庭に似合わない。誰かの旦那になりたくないし、ましてや父親などにはなりたくない。私は内側に孤独を秘めた今の私であり続けたいのである。 私は敦彦との会話を終えて、また独りになった。冷凍庫から丸型の製氷器を取り出して、れをグラスに落とすとジャックダニエルをトクトクと注いだ。琥珀色の液体の中を透明な球体が回転する。グラスを持ち上げて傾けると、氷が側面にぶつかってカラリと小気味の好い音を立てた。この静けさと、いつ酒を飲んでも良いという自由と、それらを失ってまで結婚することにどんな価値があるのだろうか。 私はアンナを愛していたが、それと結婚とは別のものだと思っていた。愛していたら必ずしも結婚しなければならないということはないだろうし、結婚しなければ愛していないということでもないだろう。アンナとの付き合いが、決して何処かに辿り着くことなく時速90マイルで永遠に進み続ける等速直線運動であったら良いのにと私は願った。
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