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第11話 男狂わしき美帝(寂しきアネモネ)
わたくしの名は氷高。
父草壁と母元明天皇との間に産まれたのじゃ。
3つ下の珂瑠がわたくしの弟であるが、
わたくしはこの子がとても可愛くて
仕方がないのじゃ。
6つ下に吉備内親王がわたくしの妹であるが、
後に父の義理の兄高市皇子様の長男長屋王へ
嫁いでいったのじゃ。
わたくしは祖母の持統天皇様が誰よりも強く、
わたくしは祖母の血を受け継いでいる為、
祖母がいた頃は誰もわたくしを口説こうとは
しなかったのじゃ。
それはそれで寂しいものじゃ。
でもわたくしには珂瑠がいたので
珂瑠がわたくしの全てじゃった。
わたくしが生まれて数年が経った頃
わたくしの父方の祖父(母方の叔父)の
天武天皇様が病死で亡くなりそれから皇位継承で
色々な出来事が起こったそうなのじゃ。
わたくしはまだ小さかったのであまり
判らなんだが、母が話してくださったのじゃ。
父が次期天皇として有力な後継者で
皇太子として色々と仕事を行い、
大津皇子様がお亡くなりになり、
父が天皇になると都中誰もが
思っていたそうなのじゃ。
それなのに父は病死してしまったのじゃ。
父は元気が失くなったのは、
父の義理の弟が何でも関係していると
母が言っていたのじゃ。
母は何でも知っていたみたいで
これは誰にも言ってはならぬと言われて
いたのじゃが、わたくしだけの心に閉まって
いるのじゃが、祖父が亡くなった年に、
父の義理の弟大津皇子様が謀反の罪で
捕らえられ自害されたそうなのじゃが、
母が父から聞いた話によると、
大津皇子様の謀反はデタラメで全てが
デマだったそうなのじゃ。
その謀反の罪に仕組んだのが事もあろうに
私の祖母の持統天皇様だとか。
そして父の病死も実は病死ではなかったのじゃ。
母とわたくししか知らない真実があったのじゃ。
父はどうやら大津皇子様の死を
父が助けてあげられなかった事に
後悔と無念とで自分を責め
ヒ素を飲み続けそれが原因で亡くなったそう
なのじゃ。
それからも祖母は次々と次期天皇候補を
企んで仕組んだそうなのじゃ。
わたくしの父の義理の兄の高市皇子様も
わたくしの大好きな珂瑠が文武天皇として
即位したのも、そもそもわたくしの祖母が
高市皇子を影で暗殺させたと母が話して
くださったのじゃ。
母からしたら、祖母は義理の姉で、
昔から姉は怖い人で何をしでかすか
判らない人だったと話していたのじゃ。
母の家臣に常に祖母を見張らせていたみたいで
高市皇子様が持統天皇様の命で暗殺された事も
弓削皇子様が持統天皇様の命で
暗殺された事も判ったらしいのじゃ。
わたくしが18の頃、正確には17の年に、
弟の珂瑠は14歳という若さで持統天皇様が
皇位を譲り文武天皇として即位したのじゃ。
その頃からわたくしと弟珂瑠は愛し合う
ようになったのじゃ。
この事はわたくしと珂瑠だけの秘密の秘事。決して誰にも知られてはならぬのじゃ。
即位してから2年後、弟も宮子を妃としたり
紀皇女を皇后とする儀式の準備をするのに
わたくしはしばらく弟と会うことが出来なんだ。
だが皇后との結婚儀式にてあろうことか、
天武天皇第9皇子の弓削皇子と
父の義理の妹紀皇女との逢引が発覚し、
持統天皇様が弓削皇子と紀皇女を
処刑したのじゃ。
だが母の話によると、これも持統天皇様の
策略だとか。
持統天皇様が紀皇女に嘘偽りを並べて
弓削皇子への逢引を吹き込ませたそうなのじゃ。
そもそも持統天皇様が弓削皇子を処刑する
策略を計画したのも珂瑠が文武天皇として
即位させる時に、弓削皇子のある発言が
持統天皇様を刺激したのだろう。
そもそも持統天皇様が策略した相手は
強さの自信を持ったがゆえ。
大津皇子様もそうじゃったみたいだし、
高市皇子様も太政大臣の地位に就いてから
天下をとりたいと思う自信がついたのだろう、
それから弓削皇子にしても高市皇子が
亡くなり不信に思いそれから変な自信を
持って持統天皇様に告訴した事により、
持統天皇様を挑発したのだろう。
わたくしが持統天皇様だったならば
大事な跡取りの為に、他の奴が
出しゃばるなと同じようにお灸をすえた
だろう。他の者への警告もこめて。
わたくしはもう誰も信じられなくなり、
それどころか、持統天皇様の気持ちも
判らなくはない自分がいるのが判ったのじゃ。
それから2年経ち、文武天皇と宮子との間に
一人の御子(首皇子)が誕生したのじゃ。
そうしてわたくしと珂瑠との関係は次第に
無くなっていったのじゃ。わたくしは宮子に
次第に嫉妬するようになったのじゃ。
わたくしはある時宮子に会うたびに
嫌がらせをするようになった。
「宮子や。わたくしとすれ違うのに
挨拶は無しか?わたくしは天皇の姉ぞ。
藤原の家のくせに、無礼ではないか。」
わたくしは会う度事に一言、二言、
嫌がらせを言うようになったのじゃ。
宮子は精神的に病むようになり、
息子の首皇子にもこの先36年会えないでいた。
それから2年して祖母の持統天皇様は
ご病気でお亡くなりになったのじゃ。
持統天皇様が亡くなるのと同時に
わたくしが自信を更についたのと、
わたくしが強くなったのも実感できるのじゃ。
宮子の精神がおかしくなったのも
計算しての事じゃった。
わたくしは宮子が邪魔だったから、もう少しで
憎き宮子を殺害するところだったのじゃ。
でもそれから四年後弟の文武天皇が
病死したのじゃ。
わたくしは母と文武天皇が亡くなる瞬間を
立ち会い、必死で抱きしめていたのじゃ。
ただ凄く悲しいのに不思議と涙は
出なかったのじゃ。
弟の為にも、弟の忘れ形見である、
弟の一人息子の首皇子をわたくしが大事に
育てこの子を天皇にする事を決意したのじゃ。
母がその後元明天皇として即位し、
わたくしは母の手助けと、
時期天皇として母から色々と学んだのじゃ。
母はずっと持統天皇様のお側にいて
持統天皇様の政治のやり方や国の統治する術を
独学で学んでいたようで、
今度はわたくしが母から教わり、
それを今度は甥の首皇子をいづれ
天皇として譲渡するという宿命をこの時
心に刻んだ。全てはわたくしが生涯愛する
ただ一人の弟の為に。
弟の文武天皇が亡くなってから数年が過ぎ、
これまで全く殿方から誘いが無かったのに、
天武天皇第4皇子である長皇子が求愛してこられたのじゃ。
わたくしは勿論その気は無いと断ったのだが、
その後もしつこく何度もわたくしを訪ねてきていたのじゃ。
同じ頃天武天皇第5皇子の穂積皇子も求愛
してこられたのじゃ。
そして更に同じ頃、天智天皇第7皇子の
志貴皇子も求愛してこられたのじゃ。
お3方共に妻もおり子も儲けておる。
わたくしと年も離れておるのに何が求愛か。
わたくしはこのお3方が天皇即位を狙ってると
直感し、わたくしの中の鬼が目覚めたのかもしれない。
7年の月日が経ち、その6月に長皇子を家臣へ
謀反の罪による処刑暗殺をこっそり頼み実行させたのじゃ。
翌月に穂積皇子を謀反の罪による処刑暗殺を
家臣にこっそり頼み実行させたのじゃ。
志貴皇子は母の義理の兄弟の為、
わたくしは殺す事が出来なかったのじゃ。
母方の叔父である志貴皇子は
どちらかというと好き勝手に生きてる歌人ゆえ。
だがそれが甘かったのである。
わたくしはその年に母から譲り受け、
元正天皇としてやっと即位したのじゃった。
一年が経ち、わたくしが天皇に即位したにも
関わらず、天皇とかに無関心な志貴皇子は、
わたくしの美しさに見とれて、
わたくしは事もあろうに叔父である志貴皇子に
犯されそうになった為、
謀反の罪による処刑暗殺をこっそり頼み
実行させたのじゃ。
わたくしはその後、可愛くて仕方のない首皇子に
手取り足取り政治のイロハを教え込み
時には首皇子を年上の色仕掛でまるで文武天皇が
側にいるような感覚でわたくしは首皇子を抱き、
首皇子に抱かれ、しばしば身体の関係にも発展していったのじゃ。
「我子首よ、未来の天皇よ、近うよれ、
もっと近うよれ。可愛い我子よ。」
わたくしは首を育てて、何としても
次期天皇に即位させなくてはいけないと
強く願ったのじゃ。
わたくしの妹が高市皇子様の第1皇子である
長屋王へ嫁いだ為、長屋王が一番信頼があり
わたくしと首皇子の片腕として働いて貰った。
わたくし41歳の頃、母の元明太上天皇が
病気で亡くなり、母の分までわたくしが
首の為に、しっかりしなくてはと思ったのじゃ。
わたくし42歳の頃、天皇の位を首皇子へ譲り
首皇子は聖武天皇へと即位し、
わたくしが太上天皇となり、聖武天皇を
我子と呼び聖武天皇の補佐をしたのじゃった。
わたくしの人生は全て弟の為にこの世を生きた
人生じゃった。
まさかわたくしが天皇になりあの持統天皇様
のように欲望の塊で弟や弟の子の為にあんなに
熱くなれるなんて思わなんだ。
自分でもびっくりな人生じゃった。
持統天皇様の血がわたくしに受け継いだ
のかもしれない。
ちなみにわたくしの虜になった、
母の義理の兄弟である志貴皇子の第6皇子が
770年(わたくしが亡くなってから22年後)
第49代光仁天皇として即位し、
天智天皇系は今の皇室の祖先の系統なのじゃ。
わたくし達は天武天皇系で
天武天皇系最後の天皇即位が、
わたくしの甥で我子聖武天皇の
娘である孝謙天皇(称徳天皇)で幕を閉じた
のじゃ。
我子聖武天皇が四人の御子を儲けたが
男子は生後一年して亡くなった基王のみで
後は3人とも女子の為、
お世継ぎが居なかったのじゃ。
そんな事ならあの時わたくしが
承諾しておけばよかったのかもしれぬな。
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