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第13話 悲劇惨劇二人の皇子(枯れた薔薇)
【まえおき】
第12話まで登場した人物達は敏達天皇の
家系です。敏達天皇は天智天皇や天武天皇に
とって祖父の父です。
現在の皇族は敏達天皇の男系子孫です。
敏達天皇の異母兄弟姉妹には用明天皇
(聖徳太子の父)、
穴穂部間人皇女(異母兄妹の兄用明天皇の皇后
で聖徳太子の母)、
推古天皇(異母兄妹の兄敏達天皇の皇后であり
日本史上初の女性天皇)、
崇峻天皇(正史で記されている、ゆういつ
臣下に暗殺された天皇)
がいるが、その他にも穴穂部皇子という
御子がいる。そんな穴穂部皇子の物語を
書きたいと思います。この頃はまだ
皇位継承が誰とは決まっていなかった。
敏達天皇が長兄だが敏達天皇の次期天皇候補に
用明、穴穂部が有力候補だった。
だが用明は優しすぎて天皇の器でない、
穴穂部自身こそが、天皇の器に値すると
思う程、野心と自信に満ち溢れていた。
【枯れた薔薇穴穂部皇子】
私は穴穂部皇子。私の長兄である敏達が昨晩崩御した(585年8月の頃)。
私はあまり兄弟姉妹が好きで無かった。
あいつらは皆ライバルで敵だ。
天皇になりたい願望が兄弟姉妹の中で
多分一番強いだろう。
敏達が亡くなったというのに、
臣下達は何故に死する王に仕え、生きる王
(自分)に仕えないのか。私は疑問でしかない。
私は何度も私が次の天皇になると強気な態度を
とった所で、権力が強い蘇我馬子が
兄である用明についている為、
権力で敵わなかった為に次期天皇は用明が
引き継いで第31代用明天皇として即位した
(585年9月の頃)。
私は悔しゅうて悔しゅうて仕方無かった。
私が一番仲が良く一番信頼できるのは
兄弟姉妹でなく従兄弟の宅部皇子だ。彼は、
私の父欽明天皇の兄である宣化天皇の御子だ。
宅部は私より歳が2回り離れた年上であったが、
性格は私と正反対で彼が無欲でおおらかな
心が広い人であった為、興味が持てたのだ。
段々と彼と接してるうちに、
彼と気心が合い彼のそんな人柄が好きだった。
私はどちらかというと気が短く、
天皇になってやるという野心があるが為、
兄弟姉妹からは鬱陶しく
思われているのだろう。
何よりも私は宅部といる時だけ心が安らぐのだ。
今日も私は宅部に会いに彼の宮へと訪れた。
「宅部よ、聞いておくれ、私は兄用明が天皇に
即位した事が悔しゅうて悔しゅうて、
宅部よ、私を慰めておくれ。」
「穴穂部、もう酒を飲むでない、飲みすぎだ。」
私は、宅部から酒を取り上げられ、
宅部から酒を取り返そうとした所、
体制が崩れ、宅部の上に体が重なり、
私の唇の下に宅部の唇も重なり、
酒の力もあり私に力が入らなく、
そのまま時が止まったかの如く
私達は動かなくそのまま宅部とキスした姿勢で
倒れたままの体制だった。
目の前の宅部は私より2回り離れた年上だったが
彼も私同様童顔だったが、私と同じ歳のように
感じ、更に彼から時折女みたいな色気を感じ
私は無意識のうちに彼に興奮もしていた。
私は宅部の口の中に舌を入れ、
宅部の舌と絡ませると、
宅部に手を強く握られた。
そこから記憶はなく、翌日の朝目が覚めると、
私は何も衣服も羽織ってなく、
私は裸のままで、私の隣に裸の宅部が寝ていた。
なんとしたことか、昨夜私は宅部と夜の営みを
してしまったのだ。
少し記憶に残っているのは、
酒に酔い潰れながらも、宅部を愛おしいと
興奮した事、宅部と接吻をした事、
これは事実だ。
宅部は私と違い、子を設けているので
まさか宅部とこんな関係になるとは
思いもよらなかった。
この時、私は24歳、宅部は48歳。
これを気に私は宅部に会いたくて
頻繁に適当に用事を思いつき、
宅部の宮へ足を運び、宅部に抱かれていく事が
日常茶飯事だった。
私は父欽明天皇の愛情を良くは知らない。
私の母は正式な皇后様ではない。
私の父の正式な皇后様は宣化天皇の皇女で
私の長兄の敏達でこの兄上には頭が上がらない。
だがその兄上が崩御した今、
私の男兄弟達の中で皇后様の御子は誰もいない。
そう、誰が天皇になってもおかしくはないのだ。
特に兄の用明には負けてたまるかと
強く思ってきた。
だが、私と違い誰に対してでもペコペコと、
頭を下げる用明が気に入らなく、
そこへ蘇我馬子が付け狙い、
蘇我馬子が用明こそが次期天皇だと
主張してみせると、他の者達も反対はなく
用明天皇として即位したのだ。
だから私は悔しくて悲しくて、
心が弱っていたのだな、
そんな時、宅部に愛されて、癒やされて、
私は、こういう安らぎが本当の父のようなのか
本当の兄のようなのか、そういう愛情
というものなのかと思うようになった。
蘇我馬子とは私の叔父に値する。
私の母親が蘇我稲目の次女で
馬子も蘇我稲目の子の為、叔父に値するのだ。
だが、用明、推古の母親が蘇我稲目の長女の為、
私より用明や推古にばかり可愛がるのだ。
私も蘇我の血を受け継いでいるというのに。
私はいつの頃からか蘇我の血を毛嫌う
ようにもなった。
蘇我稲目は8代孝元天皇の男系の血筋では
あるのだが。
翌月、私は蘇我馬子に対抗する為に
同じ位の権力強さがある物部守屋と手を組んだ。
時が一年経過した頃(586年5月の頃)、
相変わらず頻繁に私は宅部の宮へ出向いている。
時折私の後ろに人影が、人の気配がするのだが、
一度も見たことがない。
多分蘇我馬子の偵察の者が私の調査を
しているに違いない。
今は亡き先帝敏達の皇后で
姉の推古を無理やり犯し言うことを聞かせればと
思いつき推古の殯宮へ押し入ろうと思ったが
亡き先帝敏達の寵臣三輪逆が門を閉じて拒み、
私は7度も門前払いを受けて中へ入れなかった。
そこで私は蘇我馬子がどう出るのか確かめたく
三輪逆の物言い態度について
蘇我馬子、物部守屋に相談をすると
これに同意してくれて、守屋が兵を引き連れて、
用明天皇の宮のある磐余の池辺の地で
三輪逆を包囲するが、三輪逆は逃れて推古の
後宮へ隠れてしまった。
私は守屋へ三輪逆とその家族を殺すよう命じたが
気になり守屋の元へ合流しようと門を出た所へ
馬子から「王者は刑人に近づくべからず。」と
引き止められたが、
私は何とか言いくるめて馬子と離れ、
私一人で推古の宮へ行き守屋と合流した。
そして守屋と一緒に宮の中へ入り、
三輪逆を見つけると、
泣いて物乞いを三輪逆は見せたが、
私はその場で三輪逆とその家族を容赦なく
斬りつけた。
ー馬子は守屋から報告を聞くと
それにより深く考え
「天下の乱は近い」と申したが、守屋は
「汝のような小臣の知るところあらず。」と
馬子をあしらった。ー
と、私は馬子の様子を守屋から聞いた。
私は馬子が私の強さに怖気づいたと思って
心で笑いが止まらなかった。
だが、時折心の闇が押し入るので
その度に宅部の宮へと出向いていた。
「日に日に顔つきが凛々しくなってきますな、
男らしく格好いいですぞ、穴穂部。」
「宅部にまた癒やされたくてな。
私をまた抱いておくれ。
宅部は私の敏感に感じるところを
全て把握しておる。
特に私のアナルに宅部の吸付きが凄くて
たまらなく感じる。」
「私も穴穂部が好きでたまらないからな。
穴穂部が感じる所は特に愛したいのだ。」
時が一年経過した頃(587年4月の頃)、
用明が病に侵され、仏法を信奉したいと
用明が馬子、守屋へ頼み込み、
排仏派の守屋は反対したが、崇仏派の馬子は
詔を奉じて助けるべきとして私に諭し、
私は僧の豊国を九州から仕方なく連れて来た。
今はまだ戦う時でないと
私と守屋の作戦がある為我慢した。
守屋は私が法師を連れて来た為に
大いに馬子へ怒り睨みつけた。
その後すぐ守屋は阿都(河内国)へ退いて
機会を伺った。
翌週の587年4月9日用明が崩御した。
後嗣が定まらず皇位は一時的に空位となった。
私はこれで次期天皇への野望が更にわいた。
翌月の587年5月の頃、
守屋から密使が届いたので、そこで
守屋の計画(私を天皇にする計画事)を知り、
着々に物事が運ぶよう準備を進めていた。
だが、私と守屋の計画は不覚にも
馬子の密偵に見つかってしまったが
この時私と守屋は馬子にこの計画を知られるとは
思いもよらなかった。
その翌月(587年6月7日)、
私は昼頃宅部の宮へと出向いた。
「何やら胸騒ぎがするので、また私を
抱いてはくれないか?」
と宅部にねだり、私は夕方近くまで
宅部に抱かれて身体の隅々まで愛して貰った為、
少し寝てしまい、そこから私の宮へと戻った。
私の背後からやはり後を付ける気配がしたが
振り返ると誰もいなかった。
夜も更け始めた頃、推古の兵達が私の宮を囲み、
兵の一人に斬りつけられ殺害された。
あの世の噂によると、翌日宅部の宮にて、
宅部も推古の兵達に殺害されたそうだ。
何でも馬子の密偵が私と守屋の計画を知り、
更に用明が即位した頃から、
私が宅部の宮へ頻繁に出向き、
私が守屋と手を組んだ時期と
私が宅部の宮へ頻繁に出向いている事から
蘇我氏と物部氏との論争に巻き込まれ
私穴穂部は蘇我氏の血縁であるにも関わらず
物部守屋側へついた事への忌まわしめの為に
私は殺害されたそうだ。
何も知らない何の計画もしていない宅部は
その論争に巻き込まれ宅部も当事者の一人として
誤解され殺害されたとの噂をきいた。
宅部よ、私が宅部を巻き込んでしまった、
すまない。許しておくれ、宅部よ。
風の噂として翌月に丁末の乱が起き、
物部守屋も蘇我馬子に殺害されているとか。
更に藤ノ木古墳の被葬者が私(穴穂部皇子)と宅部皇子で埋葬されているとか。
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