6人が本棚に入れています
本棚に追加
昭生の目の前で、女は水中のアシカのように体を反転させた。よく見ればかなり若い。少女と言ってもいいくらいだ。だが、その顔には生気が感じられなかった。肌は蝋人形のように青白く、両目の周りだけがゴスメイクのように黒く変色している。ウェーブのかかった長い黒髪が宙にたゆたう様子は、溺死体を想像させた。
「誰だ?」
「ベベット。あなたの泥女」
「泥女?」
ベベットはそれ以上何も言わず、無表情のままフワフワと浮いている。
昭生は、ARゲームのヘビープレイヤーがたまに遭遇するという『案内人』や『ゴースト』と呼ばれる存在を思い出した。本人の深層意識の産物と考えられており、ときにプレイヤーを助けてくれるが、何もしないことも多いという。
「ベベット。息子を探してるんだ。どこにいるか知っているか?」
「わからない」
即答され、昭生はため息をついた。どうやら何もしてくれないタイプのようだ。
「時間の無駄みたいだな」
昭生はきびすを返し、自宅に向かって歩き始めた。微妙にパースの狂った家並みを通り過ぎ、角を右折する。だが、そこから少し進んだところで、昭生は異変に気づいた。何度か瞬きすると、自宅があるはずの敷地まで駆けつける。
「これは……」
両隣の家屋はそのままに、昭生たちの住む家だけが無くなっていた。外構や植栽まで全て剥ぎ取られ、乾いた地表がむき出しになっている。
昭生はその場に立ち尽くした。
引きこもりの歩は、十中八九自宅にいると踏んでいたのだ。だが歩の世界に、16年間暮らした家は存在していなかった。
「おい。何してんだよ」
剣呑な声に振り向くと、少年が三人立っていた。揃って身に着けた灰色の上下が制服のようでもあり、囚人服のようでもある。
「君たちは誰だ。どこから来た?」
「はあ、何だって?」
真ん中の少年が声を荒げ、持っていたバットを見せつけるように振る。野球部じゃないよな? 昭生は思った。
「ふざけた口ききやがって。何だこのジジイ」
「もしかして、森下の親父じゃねえの?」
「え? 君たちは」
歩の中学時代の同級生か、と言いかけた昭生の腹を、真ん中の少年がバットの先端で小突いた。痛みよりもいきなり暴力を振るわれた驚きで、昭生は息をのんだ。
「こいつどうする?」
「取りあえずボコすか」
「その辺に吊るそうぜ」
物騒な会話に冷や汗が浮く。意見がまとまったのか、少年がバットを握り直した……が、それは横から取り上げられた。
「おい! ……!」
声を上げて凄んだ少年の顔色がさっと変わる。その視線を追って、昭生も振り返った。
すぐそばに、白いワンピース姿の少女が浮かんでいた。バットに巻きついた黒髪が空中でうごめいたかと思うと、めきめきと音を立てて折り曲げた。
「やべえ、泥女だ!」
一人が叫び、少年たちは一斉に走り出した。その後を、急激に伸びたベベットの黒髪が追う。黒い蔓のような髪は逃げる少年たちの足を絡め取り、引き倒した。さらに少年たちの腕や胴体にも巻きつき、絞め始める。ぞっとするような音と悲鳴が上がった。
最初のコメントを投稿しよう!