夢の浜辺

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 歩は、小さい頃はママっ子だった。たまに家族で出かけた時も「ママがいい、ママじゃなきゃやだ」と言い、昭生が抱くと泣いて嫌がった。  そんなある日、一家は崖上から日本海を一望できる景勝地を訪れた。切り立った崖の高さと打ち寄せる荒波に怯えた幼い歩は、転落防止柵のずっと手前でうずくまってしまった。 「パパぁ」  珍しくお呼びがかかり抱き上げると、歩は昭生の首にかじりついた。 「歩、海が怖いのか?」 「うん。こわい」 「パパが一緒なら怖くないぞ。パパと一緒に見に行くか?」  昭生は何の気なしに言ったのだが、歩はすこし迷ったあと、うなずいた。 「……うん。パパといく」  しがみつく歩を抱え、昭生は柵のすぐそばまで移動した。隣で美紗が笑っている。 「ほら、歩。世界の果てが見えるよ」  歩は返事をしなかったが、昭生の肩を握る手に力がこもった。小さな体が震えている。  俺は今、世界で一番大事なものを抱えている。昭生は思った。  この子を、ずっと守ってやらなければ。 「……俺は死んだのか」 「いいえ」  目を開けた昭生に、ベベットが答えた。痛みをこらえて立ち上がる。周りを見ると、どうやら丘の中腹だった。 「いつの間に、どうやって……」 「リリーズに突き落とされた」 「頂上から?」  振り返った昭生は、ベベットの姿に目をみはった。ノースリーブのワンピースから伸びた左腕が、ひじの辺りですっぱり切断されていた。だが、その切り口は皮膚と同じ蝋の色をしており、出血もない。まるで欠けた陶器の人形だ。 「リリーズにやられたのか」 「ええ」  ベベットは俺を助けるためにリリーズと対立したのか。昭生は不思議に思った。ここは歩の世界だというのに。しかも、歩は…… 「どうして俺のアクセス申請が許可されたのか、わかったよ」  昭生はつぶやいた。 「俺を自分の世界に引き込んで、殺すためだ。歩は俺を、殺したいほど憎んでいるんだな」 「子どもが夢の中で親を殺すのはよくあること。現実とは違う」  空中で仰向けになったベベットが、何の感慨も無さそうに言う。昭生はしばらくベベットを見ていたが、首を振った。 「もう戻ろう。俺じゃ、歩の力にはなれない」  昭生は再び丘を登り始めた。先ほど登ったルートより、足元がしっかりしていて歩きやすい。俺はいつだって楽な道を選ぶんだ。昭生は自嘲した。  丘を登りきると、先ほど抜けてきた市街地が目に入る。そういえば、歩は街から離れてどこに向かったのだろう。昭生は振り返った。  反対側に広がるのは、果てしない荒野だった。  街や道路などの人工物は何もない。灰色の空は遠くに行くほど暗さを増し、暗闇の中で遠雷が絶え間なく閃いていた。  これが、歩の精神世界なのか……。  昭生は何度か(まばた)きした後、息を大きく吸い、吐いた。 「アキオ?」  荒地に向かって丘を下り出した昭生に、ベベットが声をかけた。足がかりにしていた岩が突然崩れ、転がり落ちていく。バランスを崩しかけながら昭生は言った。 「やっぱり歩のところに行くよ」 「そう。でも、私はリリーズには勝てない」 「ああ。それでいい」  斜面のくぼみに足を取られて手をつくと、そのまま四つ這いになり、ずり落ちるように丘を下りた。あらためて周囲を見渡すが、歩の行き先を示すものは何もない。 「一応聞くけど、歩がどこに行ったかは……」 「わからない」 「だよな」  昭生は擦り傷だらけの手で首元をかくと、「とりあえず前に進むか」と言って歩き出した。
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