6人が本棚に入れています
本棚に追加
歩は、小さい頃はママっ子だった。たまに家族で出かけた時も「ママがいい、ママじゃなきゃやだ」と言い、昭生が抱くと泣いて嫌がった。
そんなある日、一家は崖上から日本海を一望できる景勝地を訪れた。切り立った崖の高さと打ち寄せる荒波に怯えた幼い歩は、転落防止柵のずっと手前でうずくまってしまった。
「パパぁ」
珍しくお呼びがかかり抱き上げると、歩は昭生の首にかじりついた。
「歩、海が怖いのか?」
「うん。こわい」
「パパが一緒なら怖くないぞ。パパと一緒に見に行くか?」
昭生は何の気なしに言ったのだが、歩はすこし迷ったあと、うなずいた。
「……うん。パパといく」
しがみつく歩を抱え、昭生は柵のすぐそばまで移動した。隣で美紗が笑っている。
「ほら、歩。世界の果てが見えるよ」
歩は返事をしなかったが、昭生の肩を握る手に力がこもった。小さな体が震えている。
俺は今、世界で一番大事なものを抱えている。昭生は思った。
この子を、ずっと守ってやらなければ。
「……俺は死んだのか」
「いいえ」
目を開けた昭生に、ベベットが答えた。痛みをこらえて立ち上がる。周りを見ると、どうやら丘の中腹だった。
「いつの間に、どうやって……」
「リリーズに突き落とされた」
「頂上から?」
振り返った昭生は、ベベットの姿に目をみはった。ノースリーブのワンピースから伸びた左腕が、ひじの辺りですっぱり切断されていた。だが、その切り口は皮膚と同じ蝋の色をしており、出血もない。まるで欠けた陶器の人形だ。
「リリーズにやられたのか」
「ええ」
ベベットは俺を助けるためにリリーズと対立したのか。昭生は不思議に思った。ここは歩の世界だというのに。しかも、歩は……
「どうして俺のアクセス申請が許可されたのか、わかったよ」
昭生はつぶやいた。
「俺を自分の世界に引き込んで、殺すためだ。歩は俺を、殺したいほど憎んでいるんだな」
「子どもが夢の中で親を殺すのはよくあること。現実とは違う」
空中で仰向けになったベベットが、何の感慨も無さそうに言う。昭生はしばらくベベットを見ていたが、首を振った。
「もう戻ろう。俺じゃ、歩の力にはなれない」
昭生は再び丘を登り始めた。先ほど登ったルートより、足元がしっかりしていて歩きやすい。俺はいつだって楽な道を選ぶんだ。昭生は自嘲した。
丘を登りきると、先ほど抜けてきた市街地が目に入る。そういえば、歩は街から離れてどこに向かったのだろう。昭生は振り返った。
反対側に広がるのは、果てしない荒野だった。
街や道路などの人工物は何もない。灰色の空は遠くに行くほど暗さを増し、暗闇の中で遠雷が絶え間なく閃いていた。
これが、歩の精神世界なのか……。
昭生は何度か瞬きした後、息を大きく吸い、吐いた。
「アキオ?」
荒地に向かって丘を下り出した昭生に、ベベットが声をかけた。足がかりにしていた岩が突然崩れ、転がり落ちていく。バランスを崩しかけながら昭生は言った。
「やっぱり歩のところに行くよ」
「そう。でも、私はリリーズには勝てない」
「ああ。それでいい」
斜面のくぼみに足を取られて手をつくと、そのまま四つ這いになり、ずり落ちるように丘を下りた。あらためて周囲を見渡すが、歩の行き先を示すものは何もない。
「一応聞くけど、歩がどこに行ったかは……」
「わからない」
「だよな」
昭生は擦り傷だらけの手で首元をかくと、「とりあえず前に進むか」と言って歩き出した。
最初のコメントを投稿しよう!