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足がけいれんし、何かが切り替わったような感覚があった。
「昭生さん!」
目を開くと、自分を覗き込む妻の顔が見えた。その隣には、計器を確認する看護師の姿。天井の照明が目を刺す。
嘘だろ。目が覚めてしまった。昭生は絶望した。
俺は歩を守れなかったのか。いや、まだだ。俺をもう一度戻してくれ。
目をつむり、歩の精神世界に、あの薄暗い世界に戻ろうと強く念じる。だが、まぶた越しに感じる明るさは薄れてくれなかった。
駄目なのか。もう間に合わない。
悔しさからこぼれた涙がこめかみを濡らす。
そのあとを、風がなでていった。
……風?
おそるおそる目を開くと、辺りは太陽に照らされていた。
昭生は草原に横たわっていた。そよ風が吹きわたり、虫の羽音が耳をかすめる。近くでささやくような波の音がした。
昭生は身を起こした。草原の先には、白い浜辺とライトグリーンの海が広がっている。波打ち際に白いワンピースがひらめいた。
「ベベット!」
「アキオ」
駆けつけた昭生に、ベベットは変わらぬ無表情を向けた。だが陽光の中で見ているからだろうか。目の周りの隈は心持ち薄くなり、肌に赤みがさしたように見える。
「君がいるってことは、ここはまだ歩の世界なんだな」
「ええ」
「良かった……でもなぜだろう、様子が変わったみたいだけど」
「ものの見方を変えるのに、ささいなきっかけがあれば十分」
ベベットは浜に打ち上げられた小舟を指さした。それで、昭生はベベットの両手が再生していることに気づいた。
「アユムはあそこ」
小舟の中で、歩は横になって眠っていた。その寝顔から苦悩の影が消えているのを見て、昭生は深く息をついた。
しばらく息子の様子を眺めた後、昭生は船尾に回った。穏やかな波間に小舟を押し出す。腰が浸かる深さまでぐいぐい押していくと、浜辺のベベットに振り返った。
「俺は行くよ。君はそこまでなのか?」
「ええ」
「そうか。……ありがとう、ベベット。また会おう、絶対」
「いつも会ってる。あなたの夢で」
昭生は少し驚き、そして笑った。小舟に乗り込むと、船底から櫂を取り出す。
父と息子が現実世界に漕ぎ出すのを、浜辺の少女は見送っていた。
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