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あの日に置いてきた初恋の話
――〝彼〟に元気がない。
それは空っ風が吹く十月のことだった。
「穂乃花、今日はどうする?」
ジャージに着替えた友達が声をかけてきた。
「今日も図書室で本を読みながら待ってるよ」
「そっか、わかった!」
「うん。部活頑張ってね」
「はいよ~」
私は笑顔で友達のことを廊下まで見送った。
萩本穂乃花こと私は現在テニス部を休んでいる。正確には夏休みの練習中にケガをした右足の治療中だと言ったほうがいい。
と、言っても今月の初旬には松葉杖に頼らなくても歩けるようになったので、医者からは来月には部活に参加してもいいと言われていた。
「今日はなにを読もうかな」
放課後の図書室はいつも貸切状態で、本も選びたい放題だ。
ひとりで早々と家に帰っても暇なだけだし、こうして本を読みながら友達のことを待つのが日課になっている。
私は本棚から、ミヒャエル・エンデの分厚い書籍を手に取った。
読書は元から好きなほうで、とくに現実とファンタジーを織り交ぜたような話が好みでもある。本を抱えていつものカウンターの椅子に座った。
「……あ、」
少し大きめの独り言が漏れてしまった。
それは図書室の窓から見える渡り廊下の真ん中。
寂しそうな瞳をしながら立っている彼――宇津見零士くんがいた。
宇津見くんとはこの春から同じクラスになった。
彼は14歳にしてすでに175センチ以上の身長がある。小顔で体のシルエットも細くてモデルみたいなルックスを持つ宇津見くんはとても友達が多い。
一見すると物静かなイメージがあるけれど、誰とでも気さくに話してくれるし、彼のことを悪く言う人もいない。それでいて頭も良くて運動神経も抜群。
一年生の時からサッカー部でレギュラー入りをしていて、試合をすれば宇津見くんのファンが大勢集まるほどだった。
そんな彼が前触れもなくサッカー部を辞めてしまったのは夏休み明けの九月のこと。
理由は誰も知らない。
でも宇津見くんがこうして放課後になるとサッカー部の練習風景が見える場所で物思いにふけていることを私は知っている。
今にも渡り廊下の手すりから身を投げてしまいそうな、風に吹かれてどこか遠くへ行ってしまうような気がして、私は図書室を飛び出していた。
「ハア……っ、宇津見くん、死なないで」
乱れた髪の毛も気にしないで、彼と同じ渡り廊下に着いていた。
「萩本……さん?」
名前を呼ばれて、胸がぎゅっとした。
実は宇津見くんとまともに喋ったことがない。
一緒にいるグループが違うし、なにより話しかける前に誰かに先を越されて出遅れる。
教室の席は廊下側と窓際。〝う〟と〝は〟で五十音順も遠いから、集会の列でも近くにはならない。
登下校だって私は正門から入って、宇津見くんは裏門から入ってくる。だからなにをどうしたって、私は宇津見くんとは交わらない場所にいる。
でも、名前を……覚えていてくれたんだ。
「死なないよ。痛いのキライだし」
彼は乾いた笑い方をしていた。
サラサラと風で揺れている前髪の隙間から、まつ毛の長い綺麗な目が見えた。
やっぱりそれは……夏休み前とは全然違う。
「なにかあったの……?」
私が聞くなんておこがましいと思いながらも、このまま宇津見くんを置いて図書室に帰るのは嫌だった。
私の質問に、彼の視線がまたグラウンドへと向く。
サッカー部員たちは次の大会を控えているのか、熱量を帯びた声がここまで届いてきていた。
「部活を……辞めたことを後悔してるの?」
「ううん。後悔してるのは別のことかな」
「別のこと……?」
「俺ね、失恋したんだ」
その言葉に、薄っぺらく張り付いていた上履きの底が浮いて、思わず後ろに倒れそうになった。
〝宇津見くんが、サッカー部のマネージャーの子とデキている〟
そんな噂を耳にするようになったのは、まだ二年生になる前の去年のことだ。
サッカー部のマネージャーはひとつ上の先輩で、学校のマドンナと言われるほど綺麗な人。
宇津見くんはとてもモテる人だから、もちろん告白も数えきれないほどされている。
けれど、彼の返事はいつも『ごめんなさい』で、陰で泣いていた子もたくさん目撃してきた。
そんな頃に流れたのが、サッカー部のマネージャーの人との噂だ。
渦中の先輩もまんざらではない様子ではっきりと否定はしてないようだし、私もずっとその噂を信じてきた。
けれど、彼が部活を辞めて、この渡り廊下で寂しげにグラウンドを見つめている先に、マネージャーの人はいない。
宇津見くんは誰のことを見ているんだろうか。
そんなこと、私が探っていいわけがない。
でも彼はきっと、誰にも言えないようなことを抱えている。
わからないけれど、わかる。
だって私もずっと宇津見くんのことを見てきた。
綺麗な男の子。笑顔が可愛い人。優しくてぽかぽかオーラが漂ってる人。
それだけで、彼に片思いをする理由は十分に揃っていた。
「あのね、宇津見くんっ」
「うん?」
「えっと……えっとね」
多分きっと、彼とふたりきりで話せる機会なんて滅多にない。
もしかしたらこれが最後になるかもしれない。
ここで私の想いをぶつけたところで、宇津見くんへの気持ちは半分も伝えられないし、失恋してしまった彼の心をこれ以上騒がせることもしたくない。
だから、だから……。
「運命の人に会うと林檎の匂いがするらしいの!」
お腹から出した声は、驚くほど辺りに響いた。
「運命? 林檎? ん?」
「そういうことが書いてある本を読んだことがあるんだ」
学校の図書室にある本じゃない。
それはもっと昔に、ふとした瞬間に手に取った本。
もしかしたらどこかに置かれていたものだったかもしれないし、あるいは本屋さんで立ち読みをした中に含まれていたものかもしれない。
本のタイトルも曖昧で、どうして林檎の匂いがするのか、その理由さえ覚えていない。
でも私は絶対にどこかで見たのだ。
〝運命の人に出逢えると、林檎の匂いがする〟
私はまだ出逢ったことがない。
初恋である宇津見くんからもそんな匂いはしない。
でもロマンチックで、ファンタジーで、例え誰かが作った話だとしても私は信じたいし、彼にも知ってほしいと思った。
「林檎の匂い、か。それ面白いね」
宇津見くんが、ニコリとした。
ここで林檎の匂いがしてほしかった。
でも彼から香ってくるのは相変わらずぽかぽかとしたお日様みたいな匂いだけ。
「俺、物覚えがいいように見えて、実はけっこう言われたこととか忘れるタイプだけど、萩本さんに言われたこの話はずっと覚えていたいな」
宇津見くんはきっとずっと、このまま変わらないで大人になっていく。
自分のやりたいことをしながら挫折して、傷ついて、だけどちゃんとマイペースな部分も持っているような人だと思う。
もうすぐ部活が終わる。
グラウンドに響き渡るほどのチャイムが鳴れば、校舎に生徒たちが入ってきて、私と宇津見くんの時間も終わるのだろう。
また明日から、私が勝手に想いを寄せているだけのクラスメイトの男の子になっても。
彼の瞳に私が映ることがなくても。
初めて好きになった人が宇津見零士くんでよかったって、私は思える。
「じゃあ、もう行くね」
広がりきらない右手を小さく上げた。
「萩本さん、ありがとう」
うん、うん、と色んな意味を込めて何度も頷く。
どうかいつか、宇津見くんがありのままの自分を見せられる日が来ますように。
いつか、どうか。
林檎の匂いがする運命の人に彼が出逢えますように――。
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