きみは林檎の匂いがする

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きみは林檎の匂いがする

彼に抱かれた翌日は、いつも雨だ。 ベッドで目覚めた私はカーテンの外から漏れる水音を聞きながら、彼がいた痕跡があるシーツを指でなぞる。 ……一言ぐらい声をかけてくれたらよかったのに。 隣で寝ていたはずの彼の温もりは、もう残っていなかった。 彼と出逢ったのは今から五年前。私が24歳。彼が30歳の時にいわゆる街コンというもので知り合った。 席替えタイムで同じテーブルになり、お互いに友達に無理やり参加させられたことと、映画はひとりで見るものという考え方が同じなこともあって、私たちはその日に連絡先を交換した。 そこから友達関係を一年続け、なんとなくこの人なら心を許せるかもしれないと意識し、ふたりでごはんを食べにいく距離感になって、さらに一年。 『(あや)のことが誰よりも好きなので、俺と付き合ってください』 スカイツリーが見えるレストランで彼から告白された時は、もうそれは天にも昇るような気分で。もちろん私は『はい』と二つ返事でオッケーをした。 あれからもう三年。 ……好きなんて、最後に言われたのはいつだっただろうか。 濃厚で濃密で、触れられるたびに大切にされてると思えたベッドの中でも、最近は流れ作業のように彼はそそくさと終わらせる。 『私のこと、ちゃんと好きでいてくれてる?』 『私との将来はどう考えているの?』 いつの間にか29歳を迎えてしまった私には、それらの言葉を聞く勇気はなくなっていた。 家のマンションを出て、お気に入りの傘を差した。 なにを着ていくか散々全身鏡の前で悩み、そんなにオシャレはしなくていいだろうとニットを手に取ったけれど、大人として余裕で見られたいという思いがあり、きれいめのワンピースにヒールを選んだ。 歩くたびに、カツカツと音が鳴る。 それが女性としての象徴のような、社会人としての証のような、今の会社に入った初々しい時はそんな風に感じていた時もあった。 自分が思い描いていた人生プランでは、とっくに結婚して、子供もいて、専業主婦をしながら料理教室に通っているような、そんな毎日を過ごしているはずだったけれど……。 人生はそんなに甘くない。 傘から滴り落ちる雨が、まるで自分みたいで虚しくなった。 「片山(かたやま)綾子(あやこ)さんですか?」 待ち合わせ場所でしばらく待っていると、声をかけられた。こんなに振り向くことに勇気がいるのは初めてだ。 私は傘の持ち手を一回だけぎゅっとして、やっぱり心に芽生えたのは、余裕を見せたいということだけだった。 「はい。宇津見(うつみ)零士(れいじ)さんですよね。すみません。足元が悪い中お呼び立てしてしまって」 毎日会社で電話対応をしている私にとって、耳心地のいい声を出すことは容易い。 「……いえ。天気予報では雨じゃなかったんで、別にあなたが謝ることじゃないですよ」 静かで、淡々と喋る目の前の男。いや、正確には男の子と表現したほうがいいかもしれない。 彼は紺色のチェスターコートを着て、白のTシャツに黒のスキニーを履いていた。 肩からレザーリュックをかけて、足元はオレンジ色の紐がついたキャンバスシューズ。カジュアルだけど、すごくオシャレで、自分に似合うものをわかっている感じがした。 SNSにアップされていた写真で、事前に顔は知っていたけれど、実物はその何倍も綺麗な男の子だった。 「どこか入りますか? スタバなら近くに……」 「落ち着いて話せる喫茶店なら知ってるんだけど、そこでもいいかしら?」 「え、はい」 主導権を握られるわけにはいかないと、私から先に歩きはじめた。 向かったのは雑居ビルの地下にあるレトロな喫茶店。 こぢんまりしているけれど、実は有名な映画のセットに使われたこともある知る人ぞ知るお店だ。 タルト・オ・ポム・ルージュが有名で、ホットコーヒーだけで千円もするほど、敷居が高い喫茶店でもある。 「奥のソファ席、空いていますでしょうか?」 「ええ。こちらへどうぞ」  店員に案内されて、私たちは席に座った。   赤色の絨毯と、クラシックのBGMが高級感を漂わせる。私はテーブルに置かれたメニューを彼のほうに差し出した。 「ここは奢るから好きなものを頼んでいいわよ」 そう言って常連面している私だけれど、実はこの店に来るのは二回目である。 今の会社に入ってすぐの頃に、職場の上司に連れてきてもらったのが最初だった。あの時は大人の階段を一気に登った感じがして胸が踊った。でもプライベートでこの喫茶店を訪れることはなかった。 手取りは20万弱だし、ランチやお茶をする店はもっぱらクーポンが出ているところに限る。 そういう庶民派の感覚も似ていたはずなのに、彼はどんどん出世して今ではタワーマンションに住んでいる。 妻としての居場所を与えてくれたら、傍にいることも躊躇わないのに、私は三年間彼女のまま昇格することはない。 ホットコーヒーがふたつ運ばれてきたあとに、私から静かに話を切り出した。 「単刀直入に聞くけど、佑介とはどういう関係なの?」 この美少年のことを知ったのは、二か月前だった。 前兆はずっと前からあった。 仕事の付き合いだと飲み会が増えて、私との約束をキャンセルすることも珍しくない。  これは女の直感としか言いようがないのだけれど、ああ、いるな、と。 私の約束よりも優先している誰かが。 そんな時に、【昨日はどうもありがとうございました。次までに歯ブラシ新しいのに替えておきますね】と、明らかに仕事の内容ではないメッセージを目撃してしまったのだ。 正直、スマホを勝手に見ることはルール違反だとわかっていた。けれど佑介は入浴中だし、無防備に置かれたスマホからのメッセージ通知を無視するほどの余裕は私には持ち合わせていなかった。 【お前といる時が一番楽しい】 【また会いたい。我慢できない】 【好きだよ。愛してる】 絵文字なんてほとんど使わないはずの佑介が私ではない人に送ったメッセージは、想像するよりも衝撃的で、吐き気がするほど甘かった。 「佑介さんには、まあ、可愛がってもらってますよ」 宇津見零士がゆっくりとコーヒーを口につける。 高身長、高学歴、高収入の佑介が、火遊びのひとつやふたつしていることには驚かない。 それぐらい普通かなとも思うし、ショックだけれど、彼女としてのポジションは譲らないという強い気持ちもあった。 けれど、彼がとろとろに甘いメッセージを送っていた相手が……この男の子だったから、私はこの二か月間どうするべきかをずっと考えていた。 「佑介さんは、今日俺とあなたが会うことを知っているんですか?」 「いいえ。あの人はなにも知らないし、気づいてないわ」 「そうですか」 彼はもう一度静かにコーヒーを飲んだ。 浮気のことを佑介に問いたださない代わりに、私は届いたメッセージの名前からSNSを見つけだした。 【初めまして。江森佑介の彼女です。一度直接お話できませんか?】 そんなダイレクトメッセージを送ったのは、昨日のこと。 今日から海外出張にいっている佑介は今頃、現地に到着して、堪能な英語で取引をしていることだろう。 どんな取引よりも、怖い話し合いがこの小さな喫茶店で行われているとも知らずに。 「呼び方、綾子さんでいいですか?」 「ええ。じゃあ、私は宇津見くんでいいかしら」 「零士のほうが呼ばれ慣れているので、そっちでお願いします」 「わかったわ」 零士くんを呼び出したのは他でもない。 彼に浮気のことを問わなかったのは、単純に私が真実を知ることを拒否したかっただけ。 だって、ありえないもの。 若い女の子ならまだしも、火遊びの相手が男の子だなんて。 「彼から金銭の援助でも受けているの?」 「はい?」 「可愛がってもらってるってことはそういうことじゃなくて?」 「たしかに食事代は出してもらうことのほうが多いですけど、援助とは違いますよ。あくまで佑介さんとはフェアな関係だと思います」 「フェアな関係?」 「会いたい時に会って、身体を温め合うような、そんな純朴な付き合いですよ」 零士くんの言葉にドキリとした。 私が考えないようにしていたことを、ダイレクトに言われたような、そんな痛さが胸を貫通した。 「か、彼……いえ、佑介とはどこで知り合ったの?」 「そういう店です」 「そういう店って……」 「LGBTの人たちが集まる店ですよ」 セクシュアルマイノリティという言葉は耳にしたことがある。偏見もないし、そのアイデンティティを周りが否定することも間違っていると思う。 でもそれはあくまで無関係でいた時の話。三年付き合っている彼がそうとなると話はまったく違ってくる。 「綾子さんは知らなかったんですか?」 「え……?」 「彼女がいることは佑介さんから聞いてましたよ。だからてっきり受け入れて付き合っているんだと思ってました」 私の存在をわかっていながら浮気していた零士くんにも腹がたつし、そんなことをペラペラと喋って浮気していた佑介にも腹がたつ。 なめられているとしか言いようがないけれど、ショックなのは浮気されていたことよりも別のことだ。 「佑介は……男の人が好きなの?」  聞きながら、心臓の鼓動が速かった。 「佑介さんは男性でも女性でもどっちでも大丈夫な人ですよ。比率的には4:6らしいです」 待って。どっちが4? どっちが6? 頭がパニックを起こしていて、余裕を保つことも忘れていた。 「でも心配ないですよ。俺から言われても説得力なんてないでしょうけど、佑介さんは綾子さんのことちゃんと好きだと思います」 「………」 言い返す気力もなかった。 三年間付き合って佑介の秘密に気づけなかったことも悲しいけれど、同時に府に落ちたこともある。 付き合いはじめた頃は、わりと将来のことについても話したりして、このまま順調に結婚するのだと思っていた。 でも仕事の忙しさを理由にして、お互いの両親への挨拶はずっと先伸ばしだし、いつか子供がほしいねと言っても彼は「そうだな」とその場限りのことしか言わない。 一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年になって、いつ結婚してもおかしくない歳だというのに、彼の口から結婚のけの字も出なくなった。 私に魅力がないのかもしれない。彼女としては良くても妻にはしたくないのかもしれない。 ずっと、ずっと、ひとりで悩んでいた。 でも佑介が女性も男性も好きになれる人だと聞いて。そういう人たちが集まる店にいって、零士くんと密かに浮気をして。 彼の思考回路の中に結婚という文字なんて、最初からなかったんだと今わかった。 結婚できないからと言って、過ごしてきた時間が無駄になった。捧げてきた年齢を返せなんて、急に捲し立てる人は嫌いだ。だから、そんなことは言わない。 でも、そんな大事な秘密があったなら、先に言ってよ。 三年間ずっと一緒にいたのに、それはズルいでしょと、泣きたくなる。 「ハンカチ貸しましょうか?」 「いらないわ」 絶対に泣くもんか。 私は精いっぱいの強がりをして、すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲んだ。 「すみません。タルト・オ・ポム・ルージュと紅茶を2セットお願いします」 私は通りかかった店員を呼び止めて、追加の注文をした。 「そんなに食べるんですか」 「違うわ。ひとつはあなたの分よ」 「え、俺の?」 「なんだか糖分が足りないの。こうなった原因は浮気相手の零士くんにもあるんだから一緒に食べてよ」 「まあ、はい。いいですよ。むしろ甘いものは好きなので大歓迎です」 しばらくすると、白いお皿に乗ったケーキが運ばれてきた。 ふわりとシナモンの香りがして、シルバーのタルトナイフで一口サイズに切ると、サクサクのパイの中から林檎が出てきた。 初めてこの店に来た時、タルト・オ・ポム・ルージュがりんごタルトのことだって知らなかった。 そうやって、ひとつひとつ学んで恥もかいて、大人になった。 もう29歳でああだこうだと言い訳できない年齢だというのに、恋愛だけはいつになっても下手くそのまま。 私は本当に佑介と結婚したかったのだろうか。 結婚したいから、佑介と付き合ったのだろうか。 自分のことなのに、それすらも分からない。 私はタルトをきれいにフォークに乗せて、ゆっくりと口に入れた。 林檎と言えば、前に誰かにこんな話を聞いたことがある。 運命の人に出逢うと、林檎の匂いがすると。 アダムとイヴからきているとか、生まれ変わりを意味する輪廻がりんごに似ているからとか、理由は諸説あるらしいけれど、私は佑介と出逢った時、りんごの匂いはしなかった。 したのは、甘いたばこの香りだけ。  運命とか、そんなことを言っているから私はダメなんだろう。 はあ、とため息をつく私とは真逆に、零士くんからは明るい声が聞こえてきた。 「このりんごタルトめちゃくちゃうまいですね!」 第一印象は無気力で、あまり喜怒哀楽がなさそうな感じがしていたけれど、美味しそうにタルトを食べる零士くんは子犬みたいで可愛かった。 「ねえ、零士くんって何歳?」 「19です」 「うわ……」 「いや、それどういう意味ですか」 若いことは分かっていたけれど、10代ってだけで自分とは次元の違う生き物のように思えてしまう。 肌も綺麗だし、髪の毛も艶々だし、若いってすごい。無限の可能性を秘めていて、キラキラしている。 「学生?」 「はい。東大の経済学を勉強してます」 「と、東大?」 「起業もしてます。収益ないですけど」  「起業……」 驚きすぎて、言葉をおうむ返しすることしかできない。 顔も良くて、スタイルも良くて、東大生で、起業してるって、どんなスペック? 私なんてパソコン入力が主な仕事の一般事務。社内外で必要な書類を作成したり、郵便物の仕分けや電話対応もするけれど、資格スキルは必要ない仕事だ。 結婚もできない。給料も上がらない。なんか私って、本当になんにもないなって思う。 「零士くんは、将来なにになりたい人?」 「実は考えてないんです」 「でも起業してるから会社は作りたいんでしょう」 「うーん。将来の土台作りではあるけど、本当にまだ全然考えてないです。でも自由でいたいなとは思ってます」 「自由?」 「あれしなきゃいけない。これしなきゃいけない。こうであるべきだ、みたいな考え方が嫌いなんで」 そう言われて不覚にもハッとした。 私はきっと自分の能力はこれくらいだろうと決めつけて、未経験者可の会社に入って、周りが次々と寿退社をしていくので、自分も結婚しなきゃと思ってた。 佑介が私との将来を考えなかったのは、男の人も好きになれるという理由だけじゃない。 周りがしてるから、結婚したい。 年齢も年齢だし、三年も付き合ってるし、そろそろでしょっていう、私のそうであるべきだって考え方を見透かされていた部分もあるのかもしれない。 「……零士くんは結婚願望ある?」 「ないですよ。俺、恋愛対象は男の人だし、この先同性婚が認められてもしないですよ。ってか、結婚しない人生もそんなに悪くないですよ。したからって幸せになれるとは限らないし」 「ふふ、はは」 「なんで笑うんですか?」 「いや、本当にその通りだなって」 幸せの形なんて、人それぞれだ。 それを彼氏の浮気相手である19歳の男の子から教えてもらうなんて、想像してなかった。 「ここは割り勘にしましょう」 「ダメよ。私が誘ったんだから」 零士くんとの時間は意外にも穏やかに終わった。 喫茶店を出ると雨は上がっていて、曇天だった空にはすじ雲が浮いていた。 ……なんだか不思議な気分。零士くんに会う前は心がギスギスしていたのに、今は天気と同じように清々しさも感じている。 「零士くんはこれからどこかにいくの?」 「大学に行きます。綾子さんは?」 「私は家に帰るわ。部屋の掃除もしたいし」 彼に抱かれたシーツを洗い、お風呂をピカピカにして、ついでにいらないと思うものはすべて片してしまおう。 「あ、そういえば、ひとつだけ言い忘れていたことがありました」 駅に向かおうとする零士くんの足が止まった。 「なに?」 「佑介さんの浮気相手、俺じゃないですよ」 「ええっ!?」 周りを歩く人が私のことを見るくらいの大声を出してしまった。 「相手は俺の友達です。スマホが壊れたって二か月くらい前に俺のスマホから佑介さんと連絡を取ってた時期があったんですよ」 「ま、待って。だってさっき佑介とは身体を暖め合う純朴な付き合いだって……」 「ああ、それはたまにスポッチャに行って汗を流すことがあるって意味です。もちろんふたりきりじゃないですよ。佑介さんはたくさんいる友人のひとりです」 「そう、だったのね。ごめんなさい。勘違いして」 「いえ。俺もちょっとまぎわらしい言い方をしてしまいました」 零士くんが佑介の浮気相手じゃなかったと知って、肩の力が抜けていく。 「綾子さんは佑介さんとこれからどうするんですか?」 「彼が海外出張から戻ってきたら自分から別れを告げるつもり」 浮気されていたことも、大きな秘密があったことも、隠されていたことはムカつくし、許せないけれど、別れようと決めた理由は他にある。 私は最近、佑介の笑った顔を見ていない。 私も佑介の前で笑っていない。 付き合っているからと身体を重ねても、心は重ならない。 だからこれからは、彼は彼なりの、私は私なりの幸せを見つけていくべきだと思う。 「綾子さんならすぐにいい人が現れますよ」 「みんな決まってそう言うのよ」 「俺は本気で思ってます。綾子さん、すごくいい匂いしますから」 「それって関係ある?どんな匂い?」 「林檎の香りです」 その瞬間、ふわりと優しい風が私たちの横を通りすぎていった。 風に乗って零士くんから香ってきたのは、先ほど食べたタルト・オ・ポム・ルージュよりも甘い匂い。 運命なんて信じない。 そんな乙女みたいなことを夢見る歳でもない。 でも運命にはたくさんの意味がある。 それは恋人じゃなくても友情を意味する運命もきっとあると思う。 「今度、俺と飲みにでもいきます? 次は奢りますよ」 「零士くん、未成年じゃない」 「来月には二十歳になるので大丈夫ですよ」 「じゃあ、私の行きつけの焼き鳥屋ね。クーポンがあるのよ。鶏皮無料券」 「お、いいですね」 零士くんがくしゃりと笑う。 この日、私には―― 19歳の友達ができた。 *
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