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きみはやっぱり林檎の匂いがする
煙が充満している焼き鳥屋。カウンターには常連客が座り、座敷ではサラリーマンがすでに出来上がっていて、その隣では愚痴だけの女子会が開かれている。
そんな騒がしい店内で、俺たちはテーブルを挟んで向かい合わせで座っていた。
「たしかに私の夢はお嫁さんだったわ。でもこれから考えようとしてたとか、なにを今さら言ってんだって話なのよ」
きんきんに冷えたビールジョッキを片手に、綾子さんが鶏皮串を食べていた。
彼女と知り合ったのは半年前。綾子さんが当時付き合っていた彼氏の浮気相手が俺であると勘違いして、その一件以来、俺たちは飲み友達になった。
「佑介さん、まだ未練あるみたいですよ」
俺も生ビールを口にする。綾子さんの元カレ、佑介さんとの友人関係は続いている。
突然別れを告げられてしまったことで佑介さんの口から綾子さんの話をされることはあるけれど、俺から綾子さんの話をすることはない。
こうして飲み友達になっていることも、わざわざ言う必要はないので話していない。
「未練?なにを言ってるのよ。ちゃんと相手がいるでしょう」
「あ、俺の友達とは別れて、今は新しいパートナーがいるみたいですよ」
「私のこと、なめてるのかしら?」
「仕方ないですよ。ノーマルの人たちと違って俺らは慎重じゃないんです。付き合う前に身体の相性を確かめる人も珍しくないですからね」
「まあ、それは大事だけど」
追加で運ばれてきた砂肝とうずらの卵をつまみに、どんどん酒が進んでいく。
元々、二十歳を迎える前からサークルの付き合いで軽く飲まされることはあった。
でも綾子さんと友達になり、こうして焼き鳥屋に通うようになってからは覚醒したみたいにどんどん強くなっていく。
「ねえ、零士くんはいい人いないわけ?」
「残念ながらいませんね」
「欲しいと思ってないでしょ?」
「バレてます?」
インスタやフェイスブックで知り合った人はたくさんいるし、フットワークは軽いので呼ばれれば基本的には参加する。
おそらく出逢いは人並み以上にあるけれど、恋愛に関してはどこか警戒してる部分もあったりする。
「綾子さんの初恋っていつですか?」
「えー幼稚園の時かな。体育の先生が好きでバレンタインにチョコとかあげてた記憶があるわ」
「おませさんですね」
「そう? 零士くんはいつ?」
「俺は……」
頭の中で古い記憶を呼び起こす。
自分が他の人と違うと気づいたのは、わりと早かった。きっと小学校に上がった時には自覚していた。
でも俺は女の子になりたかったわけでも、可愛いスカートを履きたかったわけでもない。
ただ好きになる人が……同じ性別だっただけだ。
それを激しく抑えられなくなったのは中学二年の時。相手はひとつ上のサッカー部の先輩だった。
可愛がってもらっていたし、泊まりに行ったり、スキンシップもしたりして、わりと距離感は近かった。
だから俺の感覚も麻痺していて、これなら大丈夫なんじゃないかと。自分のことを受け入れてくれるんじゃないかと、先輩に想いを告げた。
結果として、普通に引かれた。
『あー、俺そっちの興味はないわ。ってか零士ってそっち系だったの?』と。
自分のことを〝そっち〟とひと括りにされたことも悲しかったけれど、それ以上に想いを伝えた日から、先輩が目も合わせてくれなくなったことが寂しかった。
それ以降、俺はどんなに仲良くなってもあまり過信しすぎないようにしている。
多分それが恋愛に臆病になっている原因なのかもしれない。
「そんな初恋、実らなくてよかったじゃないの」
ぽつりぽつりとそのことを話すと、綾子さんは怒ったようにビールを一気飲みした。
「告白するのにどれだけの勇気がいるのか、その想いを汲み取れない時点でその人はずっとそういう人よ」
綾子さんはそう言って、追加の酒を注文した。
あの頃、綾子さんのような人が傍にいたらどうだっただろうか。
酒は飲めなくても自販で買ったジュースで乾杯して今のように俺を励ましてくれたかもしれない。
「綾子さんって、逞しいですよね」
「だって私もう30よ? どこか達観してないとやってられないわ」
「はは」
苦いことを思い出して少しだけ感傷的になっていたけれど、綾子さんのおかげですっかり吹っ飛んでいた。
「もし俺たち普通に出逢って、俺が女の人を好きになれる体質だったらどうなっていたんでしょうね」
「どうってなによ」
「恋愛関係になってたと思います?」
酒も進み、ビールから日本酒になると、お互いの顔は真っ赤になっていた。
「ならないでしょ。そもそも零士くんが私のことをそういう目で見れるのかって話よ」
「うーん。でも俺、綾子さんのこと人間的に好きだからな。綾子さんこそ俺みたいなガキは恋愛対象じゃないでしょ?」
「私も零士くんのこと人間的に好きよ。って、私たちなんの話ししてるのよ」
「はは、ですね」
たくさん友達はいるけれど、綾子さんはどの部類にも入らない。
彼女にとって俺もそうだといいけれど、それを押し付けるのはガキすぎる。
「……うう、」
そろそろ帰ろうと立ち上がると、綾子さんが急に気持ち悪そうに顔を歪めた。
「あーほら、だから日本酒は飲むなって言ったじゃないですか」
「零士くんが頼むから美味しそうに見えたのよ」
「はい、お水」
最初は俺が潰れることもあったけれど、最近は綾子さんのことを介抱することのほうが多い。
綾子さんもずっと気を張っているような人だから、こういう姿を見せてくれることが、実は嬉しかったりもする。
会計を済ませて、外に出ると空には満月が浮かんでいた。
「ねえ、零士くんは幸せにならなきゃダメよ」
千鳥足で危ない綾子さんのことをおんぶしてあげると、彼女はいつもこの言葉を言う。
「綾子さんと飲めて幸せですよ」
「そうじゃなくて、人生的にもっともっと幸せに……う」
「もう、日本酒は禁止ですからね」
風に乗って、身体に染み付いた焼き鳥屋の香りが漂ってくる。
誰といてもなにかが違うような気がして、笑っていても心だけは見せなかった。でも彼女といると、俺は自然体でいられる。
決して恋愛関係にならないことが、実はものすごい強みなんじゃないかと前に綾子さんに話したら『それって最強かも』と笑ってくれた。
「ねえ、零士くん。お嫁さんになるって夢は遠退いてるけど、それ以上に私には叶えたい夢があるのよ」
呂律が回っていない声で、綾子さんがぽつりと言う。
「いつかね、海が見える街に住みたいの。大きな時計台があって、レンガ造りの街並みを歩きながら、私はバスケットを持ってフルーツとパンを買うのよ。それでね、夕暮れにはピンク色の空に鳩が飛んでる。そんな絵本みたいな街に住むことが今の夢」
それは十年、二十年、三十年と先のことかもしれないけど、贅沢はしないで真面目に仕事をしてお金を貯めたら、自分の好きなように生きたいと、話してくれた。
「それ、俺の夢にもしてもいいですか?」
「ふふ、いいわよ」
そんな返事が返ってきたあと、背中で綾子さんの寝息が聞こえてきた。
彼女の家まで続く道を、ゆっくりと歩く。
俺たちを照らしている満月が、綺麗な林檎に似ていた。
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