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今日からはじまる恋の話②
* * *
14歳の時、初めて人を好きになった。
心の中で大切に育んでいた初恋だった。
『好きです』
勇気を出して伝えた告白はシンプルだった。結果としてフラれた。それはもう、俺の甘酸っぱい初恋を苦いだけにするくらいの威力があった。
それ以降も、気になる人は定期的に現れたけれど、自分の気持ちを出すことはしなかった。
臆病なんて可愛らしいものじゃない。
俺は人を好きになることが怖い。思春期に負った傷痕が今もじくじくと膿んで、治るどころか悪化しているような気がした。
* * *
「零士くんが恋をするなら、私みたいな人がいいと思う」
常連客として通っている焼き鳥屋。来店から小一時間が経った頃、向かい合わせで座っている綾子さんがビールを片手にそんなことを言ってきた。
綾子さんと知り合った時、俺はまだ19歳だった。
綾子さんとの年の差はちょうど十歳。俺も21歳になったように、綾子さんも31歳になったばかりだ。
年齢のことを言うとめちゃくちゃ怒られるけれど、綾子さんは若いし、流行りのことにも詳しいから俺は同年代のような気持ちでいたりする。
「あれ、今って無人島ツアーの話でしたよね? なんで急に恋の話になったんですか?」
飲み放題でがんがん飲んではいるけれど、ビール4杯で綾子さんが酔うには早すぎる。
「そうよ。無人島。だから無人島に放り投げられても、草とか食べて生き延びられちゃうくらい神経が図太い人がいいってことよ」
「つまり綾子さんは草を食べるんですか?」
「生きるためにはなんだって食べるわよ。でも零士くんは頭で考えてから行動するタイプだから無理でしょ?」
「まあ、ちゃんと下調べをして安全だと証明された草じゃないと食べないですね」
「そうやって用心深くなってると、結局色んなことに手を出せなくなってくるのよ。だから零士くんには野性的っていうか、ちょっと強引な人のほうが合ってると思うよ」
なるほどね、と俺もビールジョッキを持ち上げる。黄色の液体が喉を通過して、まっすぐ胃に落ちていくのを感じた。
「だったら俺には綾子さんがいる」
恋仲になることは決してないけれど、友情よりも深い絆が俺たちの間にはあるから。
「あら、私だってずっと独り身とは限らないのよ? 最近食事に行ってる人もいるしね」
「ああ、この前飲んだ時に言ってましたね」
「正直タイプじゃないけど、良い人なのよ」
「結局それが一番じゃないですか」
「うん。別に恋愛しなくても生きていけるけど、残念ながら恋愛でしか埋められないことってやっぱりあるのよね」
俺は恋愛に前向きではないけれど、言ってることは痛いほどわかる。
気の知れた仲間や心を許している綾子さんと喜びや悲しみは共有できても、人恋しいと思う夜に抱き合うことはできない。
「この前会った子、陽汰くんだっけ。彼、私と同じで零士くんにズバズバ言うタイプでしょ?」
「はい。言わなくてもいいことも全部口に出しますね」
「やっぱり。なんか私と同じタイプだなって直感的に思ったんだよね。零士くん的に陽汰くんはどうなの?」
「鈴村はノンケですから、どうもこうもないですよ」
「でもノーマルの人でも男性と付き合うことを選ぶ人だっているんでしょ?」
「いますけど、俺は嫌です」
「どうして?」
「だってこっち側に来たら人生変わっちゃうじゃないですか。そんなこと申し訳なくて選ばせられないです」
和久井さんに紹介してもらった店で、男性同性愛者の人とたくさん会った。
その中には途中からゲイに目覚めた人もいた。大半が男の人と付き合ったことがきっかけだった。それからはもう同性しか好きになれないと。女性を見てもなんとも思わなくなってしまったと話してくれた人もいる。
もちろんそれによって幸せを掴んだ話も聞いた。でも俺は……俺のことを選んだことによって、相手の思考を変えることはしたくない。それだけは絶対にしてはいけないことだと思ってる。
綾子さんと店先で解散したあと、俺は夜風に当たりながら歩いていた。酒は強いほうだし、綾子さんと飲んでる時も酔い潰れたことはない。だけど今日はいつもより少しだけ酒が回っている。
〝恋愛でしか埋められないことがある〟
綾子さんが言ったことを頭の中で何回も再生していた。
男の人しか好きになれないことを理解してくれる人はたくさんいる。でも利害を共にできる人は限られている。
恋愛はしたいと思う。でも誰でもいいってわけじゃない。ちゃんと心を通わせることができる相手であり、俺と心を通わせてもいいと思ってくれる人。
そんな人、この世界にいるんだろうか。
ふわりと、風にのって林檎の匂いがした。
甘くて、胸が詰まるような香りだ。ビックリして俺は匂いがするほうを振り返る。
「偶然だな。お前も今帰り?」
スニーカーの音を踏み鳴らしてこっちに歩いてきたのは、鈴村だった。たしか鈴村も今日はフットサルの仲間と飲みに行くって言ってた。
「ってかなんでそんな目丸くしてんの?」
たしかにいつもより目を見開いてるせいか、鈴村の顔がよく見える。
「鈴村って……なんか香水つけてる?」
「いや、つけてない。匂いが濃いの苦手だし」
「なんか、りん……いや、甘い匂いがする気がして……」
「甘い匂い? 焼肉しか食ってねーけど。あ、そういやレジで飴もらったんだわ。ほら」
鈴村は上着のポケットから飴の包み紙を取り出した。見せてくれたそれにはアップル味と書かれている。
……林檎の飴。なんだ、そっか。匂いは飴だったのか。動揺が酔いとともに消えていく。
「綾子さんと飲んでたんだろ?」
「うん。大通りの側にある焼き鳥屋。安くてうまいんだよ。鶏皮無料券も頻繁にくれるよ」
「マジ? 今度俺も連れてって。鶏皮超好き」
あれから鈴村は俺と普通に接してくれている。
今まで自分のことを打ち明けたことは何度もあった。ひた隠しにしてた時期もあったけれど、それもしんどくなって、関わっていく人には最初から知ってもらうという方法を学んできた。話したことによって距離を取られたり、下世話な質問をされることもあった。だからある程度のことには慣れているけれど、鈴村の反応は誰とも違った。
俺がゲイであることを欠点だと思ってしまったこと。自分の中に差別的な考えがあったこと。それでも俺に対して偏見を持ちたくないことを、包み隠さずに言ってくれた。そんな人、初めてだ。
「ふっ」
「なに笑ってんだよ?」
「いや、鈴村ならたしかに無人島に放り投げられても草とか食べて生きそうだなって思って」
「なんだそりゃ。草じゃ力が出ないから絶対に肉だろ。まずは猪とかを探すよ、俺は」
「そうだね。狩りの達人になりそう」
「つーかこれなんの話?」
「さあ、なんの話だろ」
逞しさで言ったら鈴村は綾子さん以上かもしれない。
俺はお喋りなほうじゃないのに、なぜか鈴村とは話が途切れない。纏う空気が綾子さんに似ているからだろうか。
ある日の休日。俺は新宿のとあるマンションの一室にいた。仕切りがないワンルームの空間に、オフィス用の机と椅子が五つほど並んでいる。
「なあ、零士。ユーザーからアンドロイドの機種だけ通信エラーが出るって問い合わせがきたんだけど、原因がわからないから調べてくれない?」
「うん。わかった。回線の不具合だったら直すのに半日はかかるけど」
「その時は緊急メンテナンスの知らせ出しとくよ」
「了解」
返事をしながら、自分の椅子に腰かけてパソコンを開いた。
俺は大学一年生の時にSNSで集まった仲間とスマホアプリの会社を立ち上げた。iOSとAndroid用のゲームアプリで、ジャンルはRPG。基本プレイは無料だけど、アイテムの課金制があり、そこで運営費などを賄っている。
起業しようと言ったのは俺ではない。プログラミングが得意ということだけで声をかけてもらって、運営チームに入らせてもらってる形だ。
大学在学中に起業する生徒は俺たち以外にもいて、そのほとんどがマークザッカーバーグに憧れている。
一発当てれば大儲け。でも反対に失敗して借金を背負った人も知っている。その点、俺の仲間は現実主義者が多くて、このゲームだって長く続けることは難しいと考えている人がほとんどだ。
みんなとの話し合いの中で、いずれこの会社は他の企業に売却しようということになっている。
有難いことに複数社から購入の希望を貰っているし、潔く手離すことによって、この起業は成功する。ここで学んだことも多いし、このチームに加わることができて本当に幸運だった。
通信エラーの原因はすぐにわかり、メンテナンスには時間がかからなかった。みんなで帰りにラーメンを食べに行って、それぞれ抱いている夢のことについて話した。
みんな将来の設計図をちゃんと思い描いているのに、俺はまだ白紙のまま。大学三年生で21歳。すでに大人の領域に片足を突っ込んでいるのに、自分はまだ大人にはなれていないということだけを日々痛感している。
「わっ、すみません!」
ぼんやり歩いていたら、曲がり角で女の子にぶつかってしまった。
「こ、こちらこそごめんなさい。私も前を見てなかったから……」
「いや、俺のほうこそ。怪我とかしてないですか?」
「はい。大丈夫です」
にこりと笑った彼女は小柄でとても可愛らしい人だった。目が合って、なぜかまじまじと顔を見られた。
「もしかして、宇津見くん……?」
え、と拍子抜けの声を出す。俺と同い年くらいの子だけど、大学で見かけたことはないし、飲みの席で一緒になった記憶もなかった。
「覚えてないかもしれないけど、私、同中だった萩本穂乃花です」
「え、萩本さん……!?」
彼女とは中学二年生から卒業まで同じクラスだった。たしか読書が好きで、いつも図書室に通ってたイメージが残っている。
萩本さんのことを忘れていたわけではない。6年ぶりに再会した彼女が別人のように垢抜けていたから、昔の面影と一致しなかった。
「久しぶり。宇津見くんは相変わらずイケメンだね」
「萩本さんこそ、すごく綺麗になってて驚いたよ」
「はは、本当に? お世辞でも嬉しいな」
〝運命の人に出逢うと林檎の匂いがする〟
そのことを俺に教えてくれたのは、紛れもない萩本さんだ。
あの頃の俺は失恋したばかりで落ち込んでいた。夢中になって頑張っていたサッカーも辞めて、脱け殻のような毎日を過ごしていた。
そんな時に、萩本さんが林檎の話をしてくれた。彼女はもうそのことを覚えていないかもしれないし、俺もわざわざ確かめるつもりはない。
「宇津見くん、今は東大生なんだよね?」
「うん。萩本さんは?」
「私は進学しないでアパレル会社に就職したよ。それで今は少しだけ語学の勉強をしてる。海外を飛び回っているバイヤーの人に会って、すごく刺激を受けたんだ。私もいつか買い付けとかをして、自分のお店を開けたらいいなって」
「そうなんだ。素敵な夢だね」
「叶うかはわからないけど、今はやれることを精いっぱいやってるところなんだ。一生懸命やったことは無駄にはならないし、それでダメだったとしても諦めがつくしね」
「うん。叶うように応援してるよ」
「へへ、ありがとう」
背筋が伸びた萩本さんはとても凛としていた。またいつか会えたらいいねという言葉を交わして、俺たちは手を振り合う。ひとりになって、また少しだけ虚しさが襲ってきた。
――運命の人が匂いでわかる。ロマンチックで奇跡みたいなことだけど、俺の解釈は少し違う。
運命の人がわかれば、もう間違えることはないし、想いをこじらせることもない。だから林檎の匂いがした時にその相手と恋をすればいいと思っている。
普通の恋愛ができない俺にとっては、道しるべとも言えるけれど、自分が傷つきたくないから運命の人を探しているような気がして、やっぱりどっちにしても暗い気持ちになった。
「おかえり」
家に帰ると、鈴村しかいなかった。他のみんなはゼミやバイトに行っていていないそうだ。
「そ、その顔どうしたの……?」
ソファに寄りかかっている鈴村の右頬が腫れていた。
「あーなんか殴られた」
「え、誰に? 喧嘩?」
「違う。友達に一芝居を打ってくれって頼まれてさ。ほら、この前チャビーバニーやった時にいた女子のひとり」
詳しく話を聞くと、その子は元カレにしつこくされていたそうで、諦めさせるために彼氏のふりをしてほしいとお願いされたんだとか。
「それで殴られたの?」
「うん。でも満足したみたいで帰ったよ。もう二度と彼氏のふりはしねーからなって友達に言っといた」
でも、またその子が泣きついてきたら鈴村は引き受けると思う。
鈴村は口では面倒くさいと言っても、頼まれたら断れない。いや、困ってる人を無視できないといったほうが正しい。
こうして理不尽に自分が殴られても、結果的に丸く収まれば誰のことも責めたりはしない。人がいいを通り越して、かなりのお人好しだ。
「ちゃんと冷やしたほうがいいよ」
俺は冷凍庫から氷を取り出して、小さなポリ袋に放り込んだ。それを鈴村に渡すためにソファへと近づく。
「平気だって。まあ、ちょっと血の味はしてるけど」
「切れてるのかも。見せてみて」
「え、」
「早く口開けて」
ゆっくりと開いた口の中を覗き込む。鈴村は歯並びがいいから、32本の白い歯が綺麗に整列していた。
「あ、やっぱり右側が少し切れてるよ。飲み物とかしみるかもよ」
そう言うと、まるでゲームのワニワニパニックのように、急にカチンッと口が閉じられた。
「ま、待って。口の中見られんのめっちゃ恥ずかしいんだけど!」
「え、なんで? 歯医者と同じじゃん」
「そうだけど、口の中なんて普段見せることねーじゃんよ」
いつも飄々としてるくせに、鈴村は耳を赤くさせていた。急にこっちまで恥ずかしくなってきて、「ご、ごめん」と意味もなく謝った。
「俺も見せたんだから、お前のも見せろ」
「え、口の中を? やだよ」
「いいから早く!」
「わっ、ちょっ……」
肩を勢いよく押さえられた反動で俺の体はソファに沈んだ。奥行きがある四人がけのソファは、俺たちが同時に倒れられるスペースが十分にある。
気づけば鈴村の顔が俺の上にあった。お互いの息づかいがわかるほど近く、鈴村の重みも体を通して感じる。目が合って3秒ほどふたりにして固まった。
「……わ、悪い」
「べ、別に平気だけど……」
体勢を元に戻して離れても、リビングには変な空気が流れていた。こんな時、いつもみたいにおちゃらけてくれたらいいのに、鈴村のほうが黙っている。それに耐えられずに、俺はソファから腰を上げた。
「シャ、シャワーでも浴びてこようかな」
いちいち言わなくてもいいようなことを大声で宣言して、そのまま風呂場に向かった。
すぐにレバーを下げると、高い位置に置かれているシャワーヘッドから水が出てきた。痛いくらいの水圧。温度はぬるめの38度。立ったままシャワーを浴び続けているのに、体にこもってる熱が引いていかない。
心臓が壊れたみたいにうるさかった。
ただ驚いただけ。こういうアクシデントに慣れてないだけ。そうやって必死に言い聞かせている自分がいた。
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