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京の夏、照り付ける陽と風の吹かない盆地特有の蒸し蒸しとした日が続いていた。そんな日々の中に、京の町衆をときめかすのが祇園会と四条河原の夕涼みである。
六月七日には山鉾の初めの巡行として、四条通りから京極を下り、松原通りを西へと引き渡された。弥兵衛は不動寺の門前で、町家の軒すれすれに引かれる巨大な山や鉾の車輪の軋む音や掛け声に驚かされた。この祭りを支える心意気とは、またこのような山鉾を造れる技や力とは、京の町衆の底知れぬ絆を感じ取れた。
今日はそんな祭りの夜を楽しむため、京の事情に疎い弥兵衛は、洞穴の老人が繋ぎを付けてくれた二人の若者に案内されて見物に出掛けている。紙問屋の大店大黒屋の一人娘である智里は、涼し気な渓流に蛍を染め抜いた浴衣を身に着け、人目を惹くほどに佳麗な姿を見せている。その智里とは幼馴染みで下駄屋の息子の勘蔵も、薄い茶色に黒の縦じまが入った浴衣を着て、足には商売物の下駄を履いていた。四条通りを中心として、南北や東西の通りには飾り立てられた多くの山鉾が設えられ、数々連なる提灯に明かりが灯されている。それらの山鉾の屋台からは、太鼓、笛、鉦で流麗な音色を奏でる祇園ばやしが流れていた。多くの人々が行き交う四条通りを過ぎ、南北の室町通りを北に進むと店先には豪商達の家宝とも思える美術品が展示されている。弥兵衛は二人に前後して歩き、人の多さに驚きもし、移り行く光景に目や耳をも凝らしていた。田舎では見ることも叶わない祭りが、目の前で繰り広げられ、その絢爛華麗な風情に心の高ぶりを抑えることが出来なかった。漸く人通りも少なくなって来た辺りで足を止め、振り返った弥兵衛は溜息を漏らしている。
「さすがに京の都です。これほどまでに人を引き付け、有様を心に焼き付けられるのは、やはり歴史の重みとしか言いようがないと思います」
「そうどすな。このお祭りは平安の頃から続いとりまして、疫病を鎮めるのが始まりやと聞いとります」
笑顔を見せて智里が答えている。
「されど、この人の多さは」
「そら京のお人は、祇園感神院の祭神にならはります牛頭天王とゆう神さんを助けはった、蘇民将来の子孫也とゆうお札を貰わなあかんと考えていたはるからどす」
「その蘇民将来の子孫也とは、何なのですか」
「牛頭天王は祇園神ともゆわれたはりますが、その昔南方を旅しやはった時、宿を探したはりましたんや。そこで巨旦将来と言うお金持ちのお家に行かはりましたんやが、断られましたんどす。なら貧しい暮らしをしておいやした巨旦の弟さんである蘇民将来のお家に行かはると、暖かい持て成しをしてもらわはったそうどす。そのもてなしに感謝し蘇民将来の子孫也と書かれたお札が付いた粽を渡して、これを玄関に吊るしておくと疫病が流行っても誰一人罹ることはおませんと言い残さはったんどす。後に疫病が流行った時には、蘇民のお家のお人は誰も罹らず、巨旦のお家の人は皆病で亡くならはったそうどす」
「それで蘇民将来の子孫ですか。丁寧なお話を聞かせてもらい、感謝いたします」
「そんなん、かましまへん。うちの判ることなら、なんでもお話ししますさかい」
智里が恥じらいを見せて微笑んでいた。
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