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circumstances
旅行中も、ずっとずっと何かが胸の奥に引っかかっていて、心の底から楽しめていない自分を、申し訳なく思っていた。
子供にも、夫にも、自分自身にも。
そして、もう少し容量良く生きれたら、どんなに楽なんだろうとさえ思った。
ピピッ
スマホの画面が光って、メッセージの着信を知らせてくる。
官舎の役員をされている原崎さんからだった。
どこにもいけない子供達のためにと、官舎で、夏祭りをしてくださる事になっていた。
保育園、幼稚園から、小学生までを対象にして、夜店のようなものをするので、いつがいいかとの連絡を、子供のいる家庭にグループラインで送られてきた。
初めは県からの許可がなかなか降りなかったらしいが、みんな同じ保育園か幼稚園、小学校に通っているし、マスク着用、手指消毒、検温を含めた体調確認に加えて、飲食をしない、時間帯を分けて密を避けるなどの感染防止策を提出し、それを遵守する事で漸く許可されたと聞いている。
ピピッ
ピピ
ピピッ
ピピ
次々と、返信が送られてきて、画面に表示される。
「いつでも大丈夫です」
「夏休みは、ずっと家におりますので、いつでも大丈夫です」
「宿直の日以外は大丈夫です」
それらを見て、息が詰まりそうだった。
そして、そう思った自分に、何を思ってるんだろうと落ち込む。
せっかく子供達のためを思って、骨を折って下さってるのに、そんなこと思っちゃいけないのにと、自分を責める。
「すみません。来週から帰省するので参加出来ません。せっかく計画して頂いたのに、本当に残念です」
そんな中、初めての欠席の返信。
ナナちゃんのママからだった。
それを見て、はぁーっと深いため息を落とした。
頭に浮かんでくるのは、週末の出来事。
たまたま、お迎えが一緒になった数人が、園庭で遊んでなかなか帰ろうとしない。早く帰るわよと声を掛けながら、待っていた母親同士の井戸端会議が始まった。
誰かが、「あっ、来週からの体操教室、参加します?」と聞いてきた。
希望者だけが参加する、体操教室の集中講座の募集がちょうどその日締め切られていた。鉄棒やマットなど、苦手な種目を、少人数のグループに分かれて教えてもらえるので、短期間でかなりの効果があると人気だった。有料ではあるものの、保育中に行われるので、送り迎えの負担もないため、希望者は少なくはなかった。
「うちはマットだけ」
「うちは、運動が苦手だから、全部参加させようかと思って。費用はかかるけど、自信がもてるようになるならと思って」
「そうよね、安くはないけど、その分出来るようになるらしいから」
「うちも、お兄ちゃん。鉄棒怖がって全然だったのに、いかせたら逆上がりまでもうちょっとってとこまで出来る様になったから、ほんとびっくりしたわ」
「へぇー、そうなんだ」
「ななちゃんは?」
話が盛り上がる中、ずっと黙っていたナナちゃんのママに、誰かが声をかけた。
「ななちゃんは足も速いし、行かなくても大丈夫そうだもんね」
活発なナナちゃんは、運動会でも目立つ存在だったので、ごもっともな意見だった。
「いや、そんなことないんだけど、うちは…、来週から帰省する事にしてて」
ナナちゃんのママが、言い難そうにそう言った後、出来た数秒の間。
それは、本当にほんのちょっとのものだったけど、明らかに変わった空気。
「そうなんだ。随分帰れてなかったから、ご両親も喜ばれるでしょうね」
取り繕ったようなセリフに続いて、みんなが慌てたように、そうね、そうねと頷く。
なんとなく気まずい雰囲気のまま話は終わったけれど、あの時のナナちゃんのママの顔が思い出される。
あの時も、今日、今も、どんな思いでいるんだろうと思うと、また胸が詰まる。
「母が、肺がんで…」
そう告白されたのは、半年ほど前の事だった。「手術が出来なくて、抗がん剤の治療をしてるんだけど、その事を考えてるせいか、最近眠れなくて…」続けてそう話したナナちゃんのママは、受診した方がいいのかな?と相談してきてくれた。
私の仕事の事を知ってのことだと思うが、こちらまで苦しくなるような話だった。
会いに行きたくても、もしコロナに自分達がかかっていて、遷すようなことになるかもしれないとそれも出来なくて、もしかしたらもう二度と生きてる間には会えないのかもしれないと思うと辛くなって、そんな思いを同じように母もしてるかと思うと…と、思いを吐露したナナちゃんのママに、何も言ってあげることは出来なかった。
そのことだけでも、十分に辛くて苦しいことなのに、周りの反応で二重三重と苦しめられて、その事を思うとやるせなさだけが募っていく。
フッともう一度息を吐いて立ち上がると、リビングへと移動し、何気にテレビを点けた。
意識していたわけではないけれど、気分を変えたいと思っていたのかもしれない。
映し出されたのは、オリンピックの閉会式。
晴々しい顔をしていたメダリスト達の映像が次々と出てきて、それを見ながら、また考えてしまうのは同じようなこと。
この人たちも同じような思いをしているんじゃないかと。
並大抵のことではないような努力を積み重ねてきて、血の滲むような思いで手に入れたメダル。
人生の中で、一番輝いて、深い思いの瞬間かもしれないのに、それを心から喜べてないのかもしれない。常に何かを気にしながら、苦しい思いをしているのかもと、心に落とした影が段々と色濃くなっていく。
誰が悪いわけでも、何が悪いわけでもないのに、ただコロナという魔物に、いたずらに振り回されてしまっているだけ。
ピピッ
そう思っていると、もう一度手の中のスマホが震える。
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