9人が本棚に入れています
本棚に追加
後編
それから、いくたびか京を行き来する折に、私たちは、再び、あの山中という集落を通りかかったのであります。
「あの庵は?」
お館さまは、簡素な袴(はかま)のいでたちで跨っていた黒鹿毛駒からヒラリと身軽に飛び降りるなり、豊かな植栽に覆われた往来の端にポツンと佇む瓦葺の六角堂にツカツカと歩み寄られました。
六角堂の前には、都の者とおぼしき町人や、やんごとなき身分と察せられる貴族装束の若者が従者を連れたものやらが、ピタリと閉ざされた扉を黙って凝視しながら、一様に物思わしげな顔つきで並んでいるのでありました。
お館さまは、列の最後尾にはかなげな様子でたたずんでいる商家の娘らしき若い女子を見つけると、その丁稚とおぼしき小僧に、気安くぞんざいな声をおかけになられました。
「おい、ぼうず。いったい、コヤツらは、何を待っているのだ?」
見るからに立派な美丈夫ながら、京を下る道中では不精髭もそのままに、洗いざらしの麻の着物の腰に無造作に刀を引っさげたお館さまを、よもや泣く子も黙る信長公とは気付きもせずに、愛嬌いっぱいの小僧は口元に手を寄せながら、
「みんな『山中のサル』様の"判じ"に、アヤカりたいんだよ」
長身をかがめて耳を寄せたお館さまに、こそこそと耳打ちをいたしました。
なんと、あの『山中のサル』めが、お館さまが与えた反物と引き換えに村人にこしらえさせた庵で、辻占まがいの真似をはじめたところ、これが恐ろしいほどによく当たるとかで評判を呼び、今では都からも易占を求めて人が訪ねてくるのだとか。
「ほう! そいつは、面白い」
お館さまは、ひどく興をそそられたらしく、
「お蘭! わしも、『山中のサル』殿の神通力にあやかるとするぞ」
と、機嫌よく笑いながら、行列の後ろにご自分も並ばれたのです。
私は、仕方なく、屈強の2人の供を残して他の従者たちを次の宿場に先に向かわせました。
そうして、お館さまと、苔むした手つかずの石庭にたたずむこと、いかばかりか……
気付けば、天頂にいたお天道さまは、斜めにかたむきかけておりました。
「……ありがとうございました」
ふいに、しっとりとした女子の声が耳に入り、ぼんやりと夕焼けに見惚れてしまっていた私はようやく我にかえりました。
先ほどの愛想のいい小僧を連れた若い娘が、ひどく泣きはらした目元をそっと袖で拭いながらも、ずいぶんと満ち足りた微笑みを浮かべて六角堂の扉を開けて出てきたのを、お館さまはジロジロとぶしつけに見送ってから、大股に踏み段を飛び越えて一足で庵の中に入っていかれました。
「お蘭、そなたもおいで」
ひょいひょい、と子供のように手招きをされたので、私は気乗りのしないままに、あわてて石段を駆け上がり、分厚い観音扉の向こうに足を踏み入れました。
「久方ぶりじゃのう、『山中のサル』よ」
お館さまは、鷹揚に片手をあげながらニヤリと笑われると、板の間の中央に端然と坐した僧侶姿の男の前にどっかりと胡坐をかかれました。
私も、その後ろに仕方なく腰を下ろしました。
「これは……我が殿」
サルめは、うやうやしげに、綺麗に丸めた文字通りの坊主頭を深々と下げました。
「再びご尊顔を拝する光栄にあずかれますとは、拙僧の身にありあまる恐悦至極にござりまする」
静寂の間を、朗々と澄み渡る声。
雨打つ泥の中にへたりこんで物乞いをしていたみすぼらしい乞食の面影はまるでなく、しなやかなムチを思わせる鍛錬のみなぎる痩躯を持った、峻厳な若い僧侶そのままの男の姿が、そこにありました。
「のう、『山中のサル』よ。噂に名高いそなたの神通力で、わしの寿命を判じてくれんか?」
お館さまは、からかうような口調でおっしゃられました。
「殿、お戯れがすぎまする!」
私は、思わず声を荒げて立ち上がりかけましたが、お館さまは振り返りもせずにやんわりと後ろ手に私を制して、
「わしはな、知りたいのじゃ。天が、あとどれほど、わしの悪行を見過ごすつもりなのか、な」
クツクツと忍び笑いをもらして、僧侶を促したのです。
『山中のサル』めは……それだけは、あの日と変わらない……大きな切れ長の、珍しい淡いハシバミ色の瞳を、小さなくりぬき窓から差し込んでくる赤い夕陽に煌々と研ぎ澄ませてみせながら、人の心の深淵の奥底までをも一気に見透かすような澄明なまなざしで、お館さまのお顔を真っ直ぐに射抜きました。
「あなた様の天命は……残り、八十余年……」
「なんと、まあ……それほど生き延びさせられては、この世に倦んでしまいそうだの」
お館さまは、あまりにアッサリと告げられた託宣に拍子抜けされたように、つまらなそうにアゴの美髯をなでられました。
『山中のサル』は、すっかりアク抜けした瓜実顔に、もったいぶった生真面目な表情をたたえたまま、
「あなた様には天運がつきまとわれておられる。いかなる苦境の時も天が救ってくれましょうぞ。この国の礎として、天が殿を選ばれたのです。天が殿を導き、乱世の覇者へと祀り上げようとする……」
そう、淡々と告げたのです。
―――ああ、やはり、このお方には、並々ならぬ天命がさだめられていたのだ……
と、私は、全身が震えだすような感銘に打たれたことでありました。
しかし……じっと押し黙ってうつむかれてしまわれた、お館さまの白い横顔を盗み見ると……
今までにお見かけしたことのないような、空虚で、うつろな……まるで、整いすぎた人形のように、生気の感じられない……心なしか、少し青ざめた表情をなさっておいででした。
「天が……わしを導いているだと?」
膝の上に握りしめられた拳が、小刻みに揺れておられました。
「ふざけるなっ! わしの運命を導く者は、わし自身をおいて他にはないわ。天であろうが神であろうが、わしを操ろうなどとは、許さぬ。わしの功名も罪過も悪業も、すべて、わし自身で背負って地獄なりとなんなりと喜んで堕ちてやる覚悟じゃ。天に肩代わりなど、させはせぬ!」
まさに、凄艶な鬼神のごとき怒気を全身にただよわせて若い僧侶を恫喝されると、勢いよく立ち上がられ、六角堂を飛び出して行かれました。
私は、真っ青になりながらも、
「……後で、判じの代は届けさせる」
と、素早く言い捨ててお館さまの後を追いかけようとしましたが、
「"ほんに……愛いヤツじゃのう……そなた……"」
扉を出て行こうとした瞬間……背後から、地獄の底から這い上がってくるようなささやきが、含み笑いを隠して……私の脳裏に直接に響き渡り……
私は後ろを振り返らずとも、そこにいる異能の辻占の妖しく不気味な視線が、私の全身を舐め回していることを肌で感じて……その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえて、石段を駆け下りました。
あの禍々しい悪夢は、きっと、現実だったのです。
私は、垢と泥にまみれた痩せこけた異形の者に、魂まで凌辱されて……
……けれども、まだ、分かりませんでした。
得体のしれない夢魔に姦淫されたのと引き換えに、"私自身"が、どのような契約を交わしたものか……
己の魂が、霞んで、霧の奥深くに寄る辺なくたゆたっているような……そんな、どうしようもなく不吉な不安に、暗澹と引きずり込まれずにおられませんでした。
お館さまは、幼少のみぎりより、深遠な謀略を奇矯な振る舞いに隠して周囲の者の真意を試すことを得意とされ、大いなる野望を策してこられたのでしたが、その日を境にその奇矯さは真実の狂気をはらみ、「鬼」と恐れられる残忍さにも歯止めをなくされたかのようでありました。
比叡山の僧侶をいっせいに焼き打ちせしめた夜も……お館さまは、餓えた野獣のごとくに、飽くことなく私を嬲られました。
「のう、お蘭……これでも、天は、わしを見放さぬというのか?」
私の首筋を舐めまわす声は、苛立ちと苦渋に満ちておられるようで……
私は、犬のように後ろから突き上げられながらも、そのお顔を拝したくてたまらず、首をよじらせ振り返ろうと致しましたが、お館さまはすげなく私の頭を床にねじ伏せて……いっそう、深くに腰を沈めて、私の悲鳴をあおられたのであります。
その後も、お館さまは、己の我欲のままに逡巡なく突き進み凶刃を振るわれ、鬼神のままに振る舞われましたが、にも関わらず、いつでも世の賞賛と畏敬を増すばかりとなり、そのことが、さらにお館さまのお心を荒廃させていくことに気付いていたのは、私だけでありました。
そうして、ついには、地上最強と謳われていた武田の軍勢をも壊滅せしめたとき……
お館さまは、我が居城たる岩村城にあって、近しい忠臣のお歴々をお招きになり、心ばかりの酒宴を思いつかれました。
急の召集にあわてて馳せ参じた側近の中でも、ひときわ信頼を寄せられていた光秀さまに、金箔塗りのイビツな形の盃を取らせると、
「どうじゃ、勝頼めのシャレコウベで作らせた、祝い盃ぞ。存分に味わえ」
怜悧な三白眼を冷たく冴えわたらせて、白い頬をニヤリと歪ませて、おっしゃられたものでございます。
私は、震えそうになる手をこらえて、金色の盃に酒を注ぎました。
光秀さまは、柔和な温顔を凍りつかせて、じいっと盃を見つめておられましたが、ついに、黙りこまれたまま、その手を畳におろして、深々と土下座をなさいました。
「なにとぞ……ご容赦を……!」
心正しき忠義の臣は、羽織の肩を小さく丸めて、畳に這いつくばわれてしまったのです。
なんとも、おいたわしい風情でございました。
お館さまは、なぜだか……ひどく物憂げに、長い長い吐息をつかれるなり、光秀さまが頭上に掲げもたれていた金杯を、ひったくるように長い指に奪い取られると、一息に飲み干して、
「つくづく辛気くさい……つまらぬ男じゃのう、そなたは」
と、空になった盃を、光秀さまの頭に投げつけられたのです。
「いくらなんでも……ご無体が過ぎまする……!」
我が城においてのお館さまのご乱心ぶりには、城主として、さすがにお咎めせざるを得ませんでした。
しかし、お館さまは、うつ伏されたきりジッと耐えておられる光秀さまをもはや一度もかえりみようとはされず、
「こやつのせいで酒が不味くてかなわんわ。参れ、お蘭! 口直しをさせろ」
荒々しく吐き捨てるなり、私の手をつかんで引き寄せると、ズカズカとその場を立ち去ろうとされたのです。
私は……己の頭に、カッと熱い血が上るのを感じました。
居並ぶ家臣の方々の前で、ハッキリと、この身が「色小姓」として所望されていることを知らしめられて……
たちまちに、色めいた好奇と、下卑た蔑みの視線がいくつも突き刺さったように感じました。
同時に、羞恥と屈辱と……怒りが、私の心を一瞬にして占めたのです。
「殿……っ! ……お戯れは、おやめください……」
しかし、訴えも空しく、お館さまは、私の体を小脇に抱えるように急き立てて、奥の間へと連れ込まれました。
「わしが憎いか?……お蘭」
お館さまは、私の目の中にあふれているはずの怒気を真っ直ぐに見下ろされると、むしろ生き生きとした喜悦をあらわになさり、折り曲げた私の裸体をひとまとめに抱きかかえて、執拗に舐めしゃぶり、何度も何度も貫き上げて……
私の中に膨れ上がる憎悪をさらに深い情欲で屈服させることを、なによりも楽しんでおられるようでした。
「わしを操り導くものは、わし自身でなくてはならぬように、わしは、あらゆる者たちにも、その自由を振る舞ってやりたい。全てのモノが、自由な己の欲望のままに生きながら、それで世の中の秩序が自然と成り立つような……そういう世を、わしの手で作り上げたいのだ。それを"天の手柄"にさせるくらいなら、いっそ……」
と、私の奥底に、ありったけの熱をしぼりつくしながら、
「忌むべき罪業もすべて大事に抱えて、地獄の業火に焼かれてくれようぞ。すべて、わし自身が成しあげたことじゃ。天の企みなどでは、断じてない!」
ひとりごとのように淡々とつぶやかれてから、再び私の体をきつく腕の中に抱き締め上げられて、
「お蘭……わしは、天運などには頼らぬ。わしは、わし自身の足で、この世の頂に登りつめようぞ。ことごとく天の導きに逆らってくれるわ! ……そのために何を失ってもかまわぬ……だが……」
ふっと、鋭利な三白眼を細められると、
「そなただけは、手離さぬぞ……お蘭。そなただけは、逃がしてはやらぬ」
赤味の薄い引き締まった唇で、私の唇をふさいでしまわれると、漏れ出しそうになる嬌声も呼吸も唾液も舌もすべて貪りつくさんとばかりに、すき間なく蹂躙されたのです。
私は、絶望に打ちひしがれました。
私の全ては、このまま、お館さまに奪われ、すき間なく飲み干されてしまうのだろうと……そう思い知らされると……
生きることは、あまりにも空しく思えました。
お館さまの、強大な光の片隅に、私ごときはケシ粒のようにたやすく飲み込まれてしまう……
あらゆる生きとし生けるものに「自由」を望まれる、この稀代の英雄の前に、私の「自由」だけは根こそぎ奪われて……
偉大な光に包みこまれて、わずかな影すら失うのです。
お館さまの天命は……
―――残り、八十余年……
異能の巫師の託宣が、ふと脳裏によみがえりました。
八十余年……人間五十年とうたわれるこの時代において、それは私の寿命よりも長い年月であることは間違いなく。私は、この方に一生を繋がれて生きることを約束させられているのだと……
その抗いがたい絶望的な事実を改めて確信させられた胸の内には、言い知れぬやりきれなさが黒い渦を巻いて、ドロドロと澱のように降り積もりはじめたのでした。
運命の日は、それから、そう遠くない日に訪れました。
その朝。連日の深酒にたたられてか、お館さまは、ご気分がすぐれぬようで、珍しく朝餉にもほとんど手を付けられませんでした。
重い腰を上げるように向かわれた、本能寺への道すがら……天運は、さらに執拗に、お館さまに救いの手を向けられようとしました。
「このままでは……先に進めませぬ……」
先頭の足軽が、息せき切って馬を戻してきたのによれば、先日の雷雨で並木が崩れ落ち、行く手の道を遮断してしまっているとのこと。
はなから気乗りがしなかったご様子のお館さまは、フンとつまらなげに鼻を鳴らしたきり、
「ムリに行くほどのこともないわ……引き返そう」
と、サッサと轡の向きを変えられようとなさいました。
その瞬間……私の唇は、ひとりでに動き、何気ない様子で言葉をつむいでおりました。
「さすがは、殿。これこそは、天の啓示に違いありませぬでしょうから。……このまま進んでいたならば、きっと不吉な凶事が待ち受けていたことでありましょうぞ」
天の助けを借りるより、己自身の足で険しい崖を登りつめることを望まれていたお館さまにとって、私のその他愛のないつぶやきが、どれほどの意味を持つのか。私は、ハッキリと知っていたはずなのです。
にもかかわらず、私は……わざと、天運からお館さまを遠ざけるように……お館さまを挑発したのです。
案の定、お館さまは、私の言葉を耳にするなり、倒木の撤去を供のものに命じました。
そうして、私たちは、予定の刻限よりはだいぶ遅れながらも、本能寺にたどりついたのでありました。
それからの顛末は、皆さまも良くご存知のことでしょう。
夜更けて、光秀さまの奇襲を受けた従者たちは、燃え盛る炎の中で討ち死にしました。
お館さまは……真っ白い夜着を幾多の返り血で鮮やかに彩りながら、悠々と奥殿に渡られました。
驚くべきことに……凶暴な生き物のように荒れ狂っていた炎が、お館さまの進む道を譲るように両脇に避けて、屋外への退路を指し示したのです。
そうです……天の意志は、どこまでも、お館さまを生き延ばせようとしていたのです。
お館さまがこの国の礎となることを、どこまでも望んだのです。
なのに……。
お館さまは、
「光秀め……可愛いことをしでかしおる」
クツクツと、心の底から面白げに微笑まれながら、ドッカリと奥殿の畳の上に胡坐をかかれて、おもむろに諸肌を脱がれると、精悍な腹部をスルリ片手で撫で上げて、
「天に弄ばれるくらいなら、あやつにくれてやろうぞ……我が命」
そう穏やかに言い放たれるや……一瞬の迷いもお見せにならず、実に気軽な動作で……大刀の先を、ご自分の下腹に向けられたのです。
私は愕然と目を見開き……ようやく、……初めて、己の、本当の願いに気付きました。
それを自覚したと同時に、私の腕は、私の真の欲望のままに動き……
……手にしていた槍の尖端を、お館さまの御胸に深々と刺し貫いておりました。
「……!? お蘭……?」
お館さまは、行き場を奪われた大刀の先を床に突き立て、それにすがって立ち上がりながら、不思議そうに私を見つめられました。
私は、いっそう深く槍を通して、お館さまの体を壁に貼り付けてしまいながら、そのまま……みるみる鮮血に濡れていくお館さまの胸に、しがみつきました。
「イヤです……イヤです……お館さまのお命は……私に賜りませ!」
そうです。私は、どれほど強く……お館さまをお慕いしていたことか……
天の意志にも背いて自らの魂で燃え果てようとする、圧倒的な光を……私は、ずっと、ずっと、恋焦がれてきたのです。
あの酒宴の席で、居並ぶ家臣の前で伽を命じられて、寝所に引きずられたときも……私は、救いようのない恥辱と絶望にもまさる、満ち足りた優越と喜びを感じていたのです。
もっと早く己の思慕を認めていたなら……私は、お館さまを我が手にかけずにすんだのでしょうか。
それを知るすべは、どこにもなく……
ただ……天の意志にも背いて、私は、お館さまの全てをヒトリジメしたかったのです。
この国の礎として、この国を永劫に包み込む光となるべきだったお方を……私の、身勝手で狭小な独占欲で奪い去りたかったのです。
天に奪わせるくらいなら、私の手で……
そんな、底知れぬ私の心の闇が、偉大な光を覆って、ぬぐいようのない深淵に貶めてしまいました。
「蘭丸も……すぐに、お館さまのお傍に参ります……」
みるみる冷たくなっていく御肌に唇を寄せて、私が震えながらささやくと、お館さまは、力なく私の頬を撫でられました。
「ならぬ……ならぬぞ、お蘭。そなたは、生き延びよ……。生きて、わしの消えた世を見届けてから、……ゆるゆると、参るがよい」
「ですが……ですが、蘭丸は……!」
頑是ない子供のままに泣きじゃくる私に、お館さまは、うっとりするようなお優しい笑顔を向けてくださり、
「安心せい。地獄の果てまで……わしは、そなたのモノじゃ」
そう、おっしゃられて……。
凍りついた接吻が、私と、お館さまの、俗世での別離となりました。
お館さまは、ようやく天の意志から解き放たれて、満ち足りたお顔で眠られたのであります。
私は、畳の大刀を抜きざまに、お館さまの御首を跳ねて布にくるんで胸に抱き、天の怒りを伝えるように突然に猛威を奮いだした業火の中を飛び出して、惨劇の舞台から逃れたのでした。
お館さまの御首は、あてのない旅の途上で海に放りました。
絶壁の崖の上まで激しく打ち付ける波頭の中に、それは、たちまちに飲み込まれて消えてしまいました。
私は、人里離れた深山の頂の洞窟に暮らし、日夜、石くれや木片に仏を刻んでは、露をすすって生きながらえております。
そうそう……あの『山中のサル』めのことですが……
風の噂に伝え聞いたところによると、かの家康公に類まれな神通力を見込まれて、「天海」と名を変えながら、ずいぶん引き立てられているとか。
"天の海"とは、これまた、のぼせ上がった名前ではありますまいか。
しかし、いかな圧倒的な天上の大海の渦にも、お館さまの魂は、絶対に飲み込まれることはありませんでした。
私はといえば……身も心も忌まわしい欲望の波間に嘲弄され、穢されはいたしましたが……
悪夢の姦淫と引き換えに、お館さまの全てを手に入れたのですから。己の犯した大いなる罪を大切に抱きかかえて地獄の底に歩いていけることを、このうえない至福と感じていける……それを思えば、なんの愁いもございません。
私の闇に捕らえられた光は、私の命がついえたときに、きっと再びこの世に放たれて、幾星霜の時を越えて、はるか遠い我が国の未来の誰かの魂を突き動かす、ゆるぎない兆しとなるでしょう。
天の助けを振りほどいて、己自身の力で生き抜いて死ぬ……圧倒的な克己心に満ちた自由を渇望なさり、その自由をあらゆる人々にも分け与えようとした、まぶしすぎる光芒が……いつか、誰かの魂を照らすのです。
……天の意志をもねじ伏せた、お館さまご自身の遺志が……この地が闇に閉ざされそうになったとき、きっと、光の兆しとなって、誰かを導くでしょう。
私は、それを確信しながら、お館さまのお傍に旅立てる時を静かに静かに待ち望んでいるのです。
漆黒の地獄の底で、再び、あの光に包まれる時を……。
――― 終 幕 ―――
最初のコメントを投稿しよう!