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前編
あれは、京へ上る道中のこと。
美濃と近江の国ざかいの山中という集落に差し掛かった折、じっとりと全身にしのつく雨の中、痩せこけた半裸の若者が一人、ぬかるむ泥に腰まで埋めて物乞いをしておりました。
聞けば、
「この者の先祖は、その昔、この山中において常盤御前を殺し奉ったがために、その報いとして子孫は代々、五体ままならず乞食をする定めとなっている」
とのことで、村人は、かの者を『山中のサル』と呼んで蔑んでいたのです。
お館さまは……いかなる酔狂を起こされたものか……その者の不遇にいたく関心を寄せられて、供に持たせていた旅荷の中から木綿二十反を出して村の長に与えると、
「『山中のサル』の住まいをこしらえた者に、この反物の半分を褒美に取らせるがよい。残り半分で『サル』の着物を作ってやり、皆で食事の面倒をみてやれ」
と命じられました。
これを聞いた一同は、第六天魔王と(とは、もっぱらご自身で吹聴なさっておられましたが)恐れられた、お館さまの思いがけないお心遣いに感極まり、村人はおろか日頃からお館さまの気まぐれと勘気に振り回されて気苦労の耐えない供の者たちまで、一斉にもらい泣きをはじめました。
ことさら醒めた目つきで成り行きを眺めていたのは、私と、当の『山中のサル』だけでありました。
身近にも『サル』とお呼びになる、すばしこいクセモノを飼っておられたお館さまでしたが、この『山中のサル』は、サルという滑稽な呼び名にしては、あまりに鋭く陰気でギラついたまなざしを持っておりました。
私は、その者と真っ直ぐに目があった瞬間、胸のうちの奥底までをも覗き見されたような羞恥を反射的に覚えて、身をこわばらせずにはいられませんでした。
「……どうした、お蘭?」
お館さまは、馬上から不思議そうにお声をかけられました。
「いえ……何も……」
私は、ハッと金縛りから解けたように視線をそらして、サッサと駆け出した黒鹿毛駒の後を追い、逃げるように自分の馬を走らせました。
その夜、近江の宿坊で、私は、ひどく禍々しい夢にうなされました。
『山中のサル』と呼ばれていた、かの哀れな乞食が、垢と泥にまみれた下肢を私の裸身に擦り付けて……執拗に辱めるのです。
骨ばった男の体は、得体の知れない腐臭を放っており、私は、それだけでもノド元にセリ上がる吐き気を絶え間なくこらえて涙ぐまずにいられないのに、その上に、汗に粘つく男の荒れた肌が、私の肌にべったりと貼り付く気持ちの悪さと……生温かい蛇のような男の舌が、萎縮した私を辛抱強く……ふやけただれるかと思うほどに執拗にナメしゃぶるのが、どうしようもなく忌まわしく……
全身を総毛だたせながら、我を忘れて悲鳴をあげました。
すると、
「どうしたというのだ、お蘭?」
柔らかな布団の上に横たわった私の寝衣をほどきながら、お館さまは興の冷めた声で、閨の暗闇にささやかれました。
「今日は可笑しいぞ、そなた」
スッと高く通った鼻筋の先が私の鼻の頭にくっつくほどに寄せられて、ジッとのぞきこまれる、その、目……。
まなじりの切れ上がった鋭利な三白眼……透明な青味を帯びたぬばたまの瞳は、漆黒の闇の中でも、ハッキリと全てを見透かすようで……
私は、昼間の『サル』の、あの不気味なまなざしを思い出してしまい、ビクリと裸身をすくませました。
お館さまは、冷たく目を細められて、
「……何を考えておる?」
うなるような声で、尋ねられました。
「伽のさなかに上の空とは……わしも、ナメられたものよのう」
「そ……そのようなことは……」
私は、文字通り歯の根の合わぬほどにガタガタと震え上がって、かすれる声で訴えましたが……
お館さまは、むしろ、私を責めたてる正当な理由を見出したことをお喜びになったかのように、白くすべらかな頬をうっすらと歪められて、私の両脚をひとまとめに持ち上げ、ヒザが胸に当たるまでに折り曲げなさると、あられもなく上を向いた谷間をことさら水音高く丹念に舌で弄られ……
「ふ……ぅぅ……ぅう……っ」
直接に刺激されても反応しなかったのが、その執念深い陵辱で、いつの間にかヒクヒクとおののき始めて。
「っ……っひ……ぃ……っく」
私は、恥ずかしさに両手で顔を覆いながら、いつしか、幼子のようにすすり泣いておりました。
武家の家に生まれ、立派な武将として名を上げるべく育てられてきたはずの武士にとって、このようなことが、どうして大切なお役目などと誇れましょうか。
初めて、戦に同行させていただいた、あの日。
侍としての誉れを上げることを願って胸を高鳴らせていた私の期待は、その夜のうちに粉々に破れました。
戦場に女子を連れ込めない主君のために、閨のお相手をする……それが、私に与えられたつとめだったなんて。
なにより耐えられぬのは、お館さまの巧妙な手管に、己の体がひとりでに服従させられていくことです。
夜毎に、私の体は、心とはうらはらに、お館さまの望むままに開かれ、濡れて、からみつき、ねだるように自ら蠢き、奥へと誘い……
もはや、私の雄は、後孔への刺激がなくては熱を帯びないほどに、男としての役割を忘れてしまったのです。
「は……っん……ぅんっ」
私の腰は、勝手に揺れ出し、もっと深い愛撫をねだるのです。
もっと……もっと……深い場所を弄ってほしい、と。
それなのに、お館さまは、いつまでもじれったく。
「どうした、お蘭?」
含み笑いを隠したささやきは、甘く艶やかに、私の背筋を駆け上がり、
「もう……もう……お許しを……っ」
私は……はしたなく、懇願するのです。
「……ください……早く……お館さまの……」
ああ……
なんという、地獄でしょう。
恥辱に泣きながら、お館さまの引き締まった精悍な体躯に全身を貼り付けて……
奥へ奥へと這い上がってくる、禍々しい蛇のような楔が、私の中をぐちゃぐちゃにくねり、のたうつのを、私は、快感に悶えながら受け入れてしまうのです。
そして、いつでも……私の羞恥が劣情に打ち負けるのを、お館さまは、じっと見つめて楽しんでいらっしゃるのです。
洗練されつくしたケダモノのような、見事に冴えわたった冷ややかな瞳で、食い入るように私を見下ろしながら、叩きつけるように激しく腰をぶつけてこられるのです。
私の中には、亡き父に代わって養父のごとく面倒をみてくださったお館さまに対する、このうえない親愛の情と、それゆえの嫌悪と……憎しみが、いっせいに渦巻き、私は、私自身が得体の知れない異形の物の怪に姿を変えていくようなおぞましい不安にとらわれて、気が狂いそうになりながら……
「蘭……お蘭……ほんに愛いヤツじゃのう、そなたは……」
ようやく熱をはらんだ吐息混じりに、ささやかれた、お館さまのお姿が、『山中のサル』に取って代わったように思えてしまった、あの瞬間。
……私が『魔』に付け入れられたのだとすれば……それは、きっと、その瞬間に間違いなかったことでありましょう。
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