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多分あの日の哉多はほんとにたまたま部屋の前を通りがかったわたしに目をとめ、軽い気持ちで呼び入れたら素直に部屋に入ってきたので。
それまで特にそんなつもりもなかったけど成り行きでこれはチャンスなんじゃないの?ってふと思いついたから、駄目もとで一応口説いてみた。ってのが実際の流れだったんじゃないかな。
つまりあのときノマドが一瞬失踪して、それを探しに出たわたしが奴の部屋の前を通りかからなければ。そして足音を耳にして開けたドアの隙間からあいつが走るわたしに目をとめなければ起こらなかった出来事だったし、特に必然性もなかった。
奴にとっても最初からさほど強い欲求でもなかったわけだから、一旦はっきり断られたらじゃあまあいっか。と気持ちを切り替えてすっきり忘れられる。その程度の話だったんだ、って解釈して大丈夫な気がする。
そう考えたらあのとき大して思い悩みもせずにすぱっと断っちゃったけど、結果あれで正解だったんだな。と改めてほっとした。哉多を傷つけてたらどうしよう、とか余計な気を回すほどのことでもなかった。ほんの一瞬だけど気が引ける思いがまるでなくもなかったから。ちょっとだけど心配して損した。
まあ見たとこ、奴だって大学に行けばいくらでも可愛くて綺麗であいつに好意的な女の子、普通に何人か周りにいそうだし。そういう子たちに囲まれていればわたしみたいな地味で特に取り柄もなくて面白みのない子どものことは大概忘れているだろう。
就活をするうちにただのその場限りの遊び相手じゃない、将来を共にするようなちゃんとした女の子と正式に付き合いたいと思うようになるかもだし。そうなればせっかくここで居合わせたからわたしの処女をなんとかしてやらないと、なんて。新しくできた彼女にぶっ飛ばされることになるし、もう考えもしなくなるんじゃない?
そう結論づけてわたしはあのときの記憶を二度と取り出さない、奥に片付けてしまって問題ないものの箱に分類して放り込んでおいた。
呑気すぎるし、甘かった。面倒なことや考えたくないことは目を逸らして、なかったこととして無視し続けていればいつしか残雪みたいに自然と消えてなくなる。ってほど都合のいいようにことは運ばない。ってことをあとから思い知らされた。
秋もすっかり更けて本格的な冬が近づいていた。バラ園の手入れの繁忙期も過ぎていたので、その日は師匠の堤さんは来ない日。常駐の助手のわたしでも充分こなせる水やりと見回り、それから庭園の掃除にせっせと精を出しながらぼんやりと思いを巡らせていた。
またそろそろ年末だなぁ。今年も大晦日と三が日とは柘彦さんと二人で館でお留守番かな。今回はでも、さすがにあのときほど勝手もわからずがちがちに緊張しなくても済まなそうだ。当時の自分のどぎまぎ具合を思い出してひとりでに笑えてくる。
今では彼と一緒にいると一人でいるときより気持ちが落ち着くくらい、お互いの存在に慣れた。柘彦さんとの距離が一年後にはこんな風になるなんて。去年の今頃のわたしには想像もできなかったよな。
今回は前もって時間かけて、何を作ってあげようかじっくりメニューを考えられる。あの人、何ならもっと喜んでくれるかな。何を食べても美味しいって言ってくれるから、特別な好物が何なのかわからないのは玉に瑕だ。いつもきれいに残さず食べてくれるし、ただのお世辞ではないと思うけど。
そうだ、今年はわたしも澤野さんにお願いして。ふと思いついた考えにちょっと顔が綻ぶ。あの豪華なお節の作り方を教えてもらって、何品か任せてもらえないかな。そしたら彼に、これ、今年はわたしが作ったんですよ。って胸張って言える。去年は美味しいって褒めてもらっても、いえそれは全部澤野さん作ですから。って正直に打ち明けるしかなかったもんなぁ、お節料理については…。
わたしの足許で風にひらひら舞う枯葉にじゃれついてたノマドが身体を強張らせてぴく、と振り向いたのに気づくのと。結局ほとんど同時な出来事だった。
「…わっ!久しぶり、眞珂。びっくりした?」
ああ驚いたよ。驚いたけど、それはいきなり何の前触れもなくごく耳許であったかい呼気に混じった囁き声が響いたから、じゃない。
ノマドが敵襲来!とばかりに警戒して背中の毛を逆立てて威嚇するのが目の端に見えたのと。わたしの首っ玉に分厚いコートに包まれた両腕ががしっ、と絡みつくのにほぼ時間差がなかったから、身構える暇もなかった。声はどう考えてもそれより遅れてきたんだから。呼びかけるより先に抱きつくな。加減しろ馬鹿。
一瞬でぱっと離れりゃいいのに、ぎゅうぎゅう締めつけて止めようとしない。わたしは思いきり身を捻るようにして奴を振り切り、ぷは。と大きく息をついて絶え絶えに呟いた。
「何なの急に。気軽に触んないでよ、哉多。普通そういうことする?大学で女の子に訴えられるんじゃないの。やめた方がいいよ、こういうの」
奴はわたしの抗議が全く堪えた風でもなく、手のひらを広げて頭をぐしゃぐしゃと撫でつつ平然と言い返してきた。
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