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一話 彼の名はルバネス(1)
ラティエール公国の中心、首都ウェーラスに鎮座する要塞ラティエール城には、いくつかの行政施設が併設されている。
中でも人々から“パレス”と称されている一角は城の最深部にあり、国家元首である大公とその親族が住まう場所としても知られていた。
「…これ、お願い」
使い慣れた愛用の万年筆を手に、大公ルリサ・エルメリューズは小難しい言い回しが並んだ書類に目を通しては、秘書に指示を出していく。
静かに回っていく時計の針に目をやることも無く、淡々と仕事に打ち込んだ。
「大公殿下、失礼致します。エレンジェールが参りました!」
ノックと共にドアの向こうから聞えて来た元気な声色に、顔を上げて笑みを零す。
ドアを開け、侍女と共にティーセットを持って、愛娘がやって来た。
「おはよう、エレン。今日も時間に正確ね」
目を通していた書類を置き、娘を招き入れる。
きっかり十時に来ては、母に休憩を取らせるのが彼女の朝の仕事だった。
「今日はシフォンケーキとコーヒーです。中庭に植えたジューンベリーが、今年は沢山なったでしょう?そのジャムが残っていたので、ケーキの付け合わせにしました」
淹れ立てのコーヒーと共に、お洒落に盛り付けられたケーキを前に、エレンジェールは母と向かい合ってソファーに腰掛ける。
国の長として忙しい日々を送る大公にとって、午前のティーブレイクは母として娘と接することが出来る、数少ない束の間の安息だった。
「昨日の視察はどうだった?」
「問題なく完了致しました。クロードお兄様も落ち着いた様子で、担当の方からお話を聞いておりました。先程、視察の報告書を提出して来たところです」
そんな娘の報告に、そうか、と感慨深そうに大公は笑みを零した。
そっとカップを口に寄せ、香ばしく香り立つコーヒーを啜る。
窓から吹き込む微風が、優しく頬を撫でた。
「貴女もすっかり、公女らしくなったわね」
「私、もう十七ですもの。未来の大公であるお兄様を支えられるよう、相応しい立ち振る舞いを身に付けねば…!」
胸に手を当て、彼女は堂々と当然とばかりに言い切る。
けれど、壁に掛けられていた家族写真に目を向けた途端、何処か寂しげな表情を見せた。
「………、もう泣き虫は卒業です。甘えん坊のままでは、いつまで経っても父上が安心して天国に行けません…。それにヴィラディアンの脅威が迫りつつある今、私もしっかりしなければ皆様の不安を煽ってしまいますもの…」
憂いを隠せない娘に、大公は静かに席を立ち、その背を摩った。
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