生者の絶望

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

生者の絶望

◆ 生者の絶望 ◆  まだ昼を少し過ぎたばかりの時刻だというのに、陽射しはすでに低く傾いていて弱かった。初冬の午後の弱いその陽射しの中、ぐったりとベンチに腰掛け、足元の地面を虚ろに凝視しながら、私は頭の中で呟いていた。 ― なんなんだ、この怠さは・・・ ―  まるで泥酔した愚か者のような、醜悪でだらしのないその姿勢を保つのもやっとなほどの体の怠さだった。 「おい、オッサン!」 突然、頭上で男の声がした。 ― ん?・・・私の事か?私を呼んでいるのか?・・・ ― そう思ったが、私はその声に反応しなかった。いや、正確に言うと、反応する事ができなかったのだ。 あまりの怠さで、自分の体が鉛と化してしまったかのような錯覚を覚え始めていて、その声に反応する余裕など少しもなかった。 「おい、オッサン、聴こえてんだろ!」  男の声が怒気を帯びた。 その怒気に、私は反射的に身の危険を感じた。その危険を回避するため、本能が強引に私の意識を声の主に向かわせた。 些細な動作も拒絶を見せる全身の異常な怠さに懸命に抵抗しながら、やっとの事で顎を少し上げると、私は上目遣いにその声の主を見た。 声の主は若者だった。 「ゲッ!まるで、腐った魚の眼だな、オッサン。いや、違うな。腐った魚でもそんな眼はしてねえな。ほんと、酷過ぎるぜ。ウェッ!マジでゲロ吐きそう。」 私を見下ろしながら蔑むようにそう言うと、若者は、わざとらしく大袈裟に自分の口と鼻を片手で覆った。 ― な、なんなんだ、こいつは・・・いったい、誰だ?・・・ ― 身長が一メートル八十センチはある、長身の若者だった。 歳の頃は・・・二十歳くらいだろうか・・・。 薄茶色に染まった長くて艶のない髪は、まるで寝グセのようにグシャグシャで、毛先がすべて無秩序に飛び跳ね、私にはボロボロにしか見えない破れた穴だらけのジーンズを穿き、季節はもう冬の始まりだというのに、黒のライダーズジャケットの下はTシャツ一枚で、足元は裸足にだいぶ草臥れたナイキのハイカットのスニーカーだった。 季節感などまるで感じられない身なりの酷さと、無作法で品の欠片もない言葉遣いに相反して、若者の顔立ちだけは彫り深く端整に整っていて、驚くほどの美くしさを見せていた。 ― 俗に言う「イケメン」ってやつか?・・・こんな奴でも、この若さと、この顔の綺麗さだけで、世間からそう呼ばれてチヤホヤされるんだろうな・・・だが、そのイケメンがいったい私になんの用があるというんだ?・・・ ― 私はそう思った。 「馬鹿か、お前?こんな奴でも・・・は、余計だっつ~の、オッサン。」 若者が言った。 ― えっ?・・・ ―  私は驚いた。 ― 何故だ?何故わかったんだ?・・・声に出してなどいないのに・・・ ― 「なんでじゃねぇ~よ、バ~カ。」 ― まただ・・・ ― 私は混乱した。 「いちいち混乱してんじゃねぇ~よ、オッサン。」 そう怒鳴ってから、若者がニヤリと薄く笑った。 背筋に悪寒が走り、全身が鳥肌立った。 ― 私の考えている事がわかるのか?・・・まさか、そんな事が・・・ ― 人を見下し馬鹿にしている若者の眼が、それも、何か含みを持った冷たい眼光を放つ眼がそこにあった。 ― そんな・・・そんな事が、あるはずない・・・きっと、ただの偶然か・・・でなければ、ただの当てずっぽうだ。私をからかっているのか?・・・なんなんだ、こいつは?私になんの用があるっていうんだ?私は、お前なんか知らない・・・ ― 私は腹が立ってきた。いきなり眼の前に現れたまったく見ず知らずの者に謂われもなく罵倒され、見下した眼で見下ろされて、腹の立たない人間がいるだろうか?それも、自分の年齢の半分にも満たないような若造なんかにだ。 ― なんだ、この若造は?・・・失礼な奴だ、ぶん殴ってやろうか? ― そう思って、私は若者を睨みつけた。 その瞬間だった。 「バチンッ!」という音と同時に、衝撃が走り、私の顔が強制的に歪められた。一瞬、眼の前が真っ暗になった。 何が起きたのか?すぐにはわからなかった。 顔の左半分がビリビリと痺れている。鼓膜が破れでもしたのか、左耳の中では「キィ~ン」とした耳鳴りが止まず、ズキズキと射すような痛みが走っていた。 「こんな風にか、オッサン?・・・それとも、平手でなく拳骨でか?・・・なんなら、右側は拳骨で殴るか?」  若者が言った。 ― 私は、殴られたのか?・・・ ― どうやら、今、喰らった一撃で、口の中が切れたようだ。微かに生臭い血の味がした。その血の味を舌で確かめているうちに、疑問を通り越して恐怖が湧いて来た。 ― こいつ、今、なんて言った?・・・こんな風にか?だって・・・ ― 「やっと納得したかい、オッサン?」 ― やはり・・・ ―  そう思った時、若者が私の髪の毛を鷲掴みにして後方へ引っ張り、私の顔を強引に上向かせた。 「おいおい、オッサン、言葉遣いに気をつけな!こいつって、誰の事だ?」 混乱を押し退け、屈辱感が湧き上った。私は抵抗しようとした。両腕を上げ、この無礼な若者の腕を掴もうとした。 だが、どうした事か、腕がまったく上がらない。 私の体に起きている異変はそれだけではなかった。私は、立ち上がる事も、この若者に向かって「やめろ!」と叫ぶ事もできなかった。 「フンッ!」 若者が鼻で笑った。 「お一丁前に抵抗しようとしやがって。出来るんなら、してみろよ、ホラッ、ホラッ、ホラッ!」 髪の毛を鷲掴みにしたまま、若者が私の頭を乱暴に振り回す。屈辱が増した。そして混乱も増した。 だが、その屈辱はすぐに萎む風船のように萎え、残された混乱の中から恐怖が顔を覗かせた。 何故・・・何故、体が動かないのか?・・・何故、声が出ないのか?・・・まさしく悪夢だった。 ― そう、これは夢だ、夢なんだ。私は、悪夢を見てるんだ。絶対そうに違いない。 ―  私はそう思った。いや、そうとしか思えなかったし、そうであってほしかった。 「何?・・・夢だって?悪夢だって?・・・馬鹿か、オッサン。夢で耳鳴りがすると思うか?・・・痛みが走るか?・・・顔の左半分が痺れるか?・・・口の中で血の味がするか? なんなら、もっと痛めつけようか?・・・その眼ん玉をくり貫くとか、指を一本一本へし折るとか?・・・そしたら、理解できるんじゃねえか?これは現実だってな。」 若者は、冷酷な笑みを顔に浮かべていた。 ― や、やめろ! ―  私は叫んだ。 「や・め・て・く・だ・さ・い・・・だろ!んんっ、おっさん!」 若者はそう言うと、掴んでいた私の髪の毛を離した。 「ケッ!汚ねぇ髪だぜ。ああ~気持ちワル!手がベトベトじゃねぇか。これだからおっさんは嫌なんだよな。」  そう言いながら、若者は穿いているジーンズで自分の手を拭った。 「クソッ!取れねえじゃねぇかよっ。」 眉間に縦皺を刻み、眉を吊り上げた若者が何度もジーンズで手を拭いながら、ギロリとした眼でこちらを睨む。 ― また、殴られる ― そう思って、私は体を硬直させた。 「ケッ!そんなにビビんなよ、オッサン。あんたが、ちゃんと礼儀をわきまえて行儀良くしてたら、俺だって、無闇に手は上げないぜ。」 若者が言った。 メチャクチャな言い分だが、どうやら、二発目は避けられたようだ。その安堵に、体の硬直がほぐれかけた。 「な~んてね、デコピンッ!」 額に走った痛みで、顔が歪む。ビリビリとして眼に沁みる痛みに耐えながら若者を見上げると、若者は愉快そうにケラケラと笑っていた。 ― な、なんなんだ、くそっ! ― 「あらら、怒った?」 若者が、笑い続けながら言った。 ― 当たり前じゃないか!ふざけるな! ―  怖々としながらも、再び怒りが顔を覗かせていた。 「ヤダねぇ~、オッサンって。全然、洒落が通じない。あ~、ヤダヤダ。」 若者はそう言って、頭(かぶり)を振った。とことん人を馬鹿にし、見下している。 ― こいつ、絶対頭がおかしい、狂ってる ― そう思った時、若者がジーンズの前ポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。 バタフライナイフだった。 手首を振って鞘から刃を跳び出させ、左手の親指の腹でナイフの刃を拭きながら、若者が私を睨む。 「なんだって?俺が、狂ってるって?」 恐怖に、体が凍りついた。 ― まずい、逃げなきゃ。早く此処から逃げなければ・・・ ―  私はパニックに陥った。 「ほら、逃げてみろよ、オッサン。逃げれるもんなら、逃げてみろって!」 若者が、バタフライナイフの刃を私の頬に押し当てた。 ― うわぁ~っ! ― 私は恐怖に叫んだ。 だが、その叫びが声とならない。意識は逃げ出そうと必死にもがいているのに、体はピクリとも動かなかった。 「無駄だって、オッサン。あんたは悲鳴を上げる事も、逃げ出す事も出来ないんだって。まだわかんないの?馬鹿だねぇ~。」 若者が、ナイフの刃の側面でピタピタと私の頬を叩く。 「どこにする、オッサン?」 ― えっ?どこにするって? ― 「どこから切り刻む、オッサン?」 ― や、やめてくれ!誰か!誰か助けてくれ! ― 私は叫んだ。だが、やはり声にならない。それでも、私は懸命に叫んだ! 「ああ~、うるさいな。往生際が悪いぜ、オッサン。」 若者は楽しげに笑っていた。どうにも出来ない恐怖に、私の全身はガタガタと震え出していた。 「オイオイ、小便チビリそうなんじゃないの、オッサン?」 若者が言うように、恐怖で本当に小便が漏れそうだった。 ― 私がいったい何をした?何故、私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ?・・・― 「何をした?だって・・・」 蔑むような眼で私を見ながら、小さく溜息を漏らし、若者が頭を振った。 「誰もあんたを招いちゃいないってぇのに勝手に此処に来るわ、言葉遣いは悪いわ、俺を狂ってると侮辱はするわ、ギャアギャア喚き散らすわ・・・俺に切り刻まれても文句は言えないだろっ!」 ― そ、そんな・・・そっちが勝手に、私に関わって来たんじゃないか・・・ ― 「ハアァ~?」 呆れたように、若者が大きく溜息をつく。そして言った。 「渡辺純一郎・・・歳は55・・・だったな。身長は、155センチ、体重は87キロ・・・こりゃ、完全にメタボだな。」 若者が鼻で笑った。 「15年前に結婚・・・子供はなし・・・両親は・・・父親は、オッサンが大学の時に他界・・・母親も、後を追うようにその3年後に他界・・・そして、一人っ子だったオッサンは兄弟もいない。」  まるで手元の資料を読み上げてでもいるかのように、若者が私の事を喋り始めた。 「職業は・・・食肉加工会社のオーナー・・・いや、違った、オーナーだっただな・・・なんせ、あんたの会社は、景気が好調だった時の多角化と過剰投資のせいで、その後の不況の時代を乗り越えられずに倒産しちまったんだもんな。 倒産後、自暴自棄となり、酒とギャンブルに走っているうちに、3ヶ月前、妻が交通事故死・・・ あんたは、最愛の妻を失って改めて彼女の存在の大きさに気付き、同時に自分の愚かさと情けなさに気付くが・・・残念でした!後の祭り~。」  若者がゲラゲラと笑った。 「以来、自虐の日々を過ごすうちに、次第に生きる気力を無くし、毎日のようにこの公園に来ては指定席のようにこのベンチに座り、ただ死ぬ事だけを考えている。」 あの蔑んだ眼で、若者が私を見ている。私は驚いていた。 「実にアホで、憐れなオッサンだ。」  若者は、ぽつりとそう言うと、眼を瞑り、わざとらしく目頭を左手の親指と人差し指で押さえて頭を振った。 ― 何故、何故知ってるんだ?何故、私の事を・・・ ― 「あんたが、此処に来たからさ。」 ― 此処に来た? ― 私は辺りを見回した。確かに、若者が言ったように公園だった。 眼の前には大きな噴水が見える。噴水の横には石造りのモニュメントがあって、上部に取り付けられた銀色の金属の歪んだ輪が、上下に波打ちながらゆっくりと回転していた。 その向こうには、ジャングルジムが見えた。ジャングルジムの横にはブランコがあり、その横には滑り台も見える。 寒さに備えてしっかりと身繕いをした何組かの親子が、そのジャングルジムで、ブランコで、そして、滑り台で楽しそうに遊んでいた。 そして私は、その公園の中の幾つかのベンチの一つに座っていた。それがこのベンチだった。 何故、私がこの公園にいるのか?・・・何故、このベンチに座っていたのか?・・・私にはまったく記憶がなかった。 「まったく、困ったオッサンだな。」 バタフライナイフを手に持ったまま、若者が呆れていた。 何がなんだか、さっぱりわからなかった。 蔑んだ眼で見下されながら謂われもなく罵倒される屈辱が、打たれた頬の痺れが、口の中に広がる血の味が、強烈なデコピンによる額の痛みが、バタフライナイフで切り刻まれようとしている恐怖が、私がこの公園のこのベンチに座っている事への罰なのか?・・・ そもそも、この公園にいる事、このベンチに座っている事が罪なのか?・・・ ― そんなはずはあるまい。たかが公園の、たかが一つのベンチじゃないか。もしかしたら、私の座っているこのベンチがこの若者の気に入りで、そこを占領された事をこの若者は怒っているのか?・・・だったら、すぐに譲ってやるさ。私は退散する。― 「退散する?」 若者がそう言って、「チェッ!」と舌打ちした。 「出来れば、俺もそうしてもらいたいね。若くて可愛い娘や、綺麗なお姉さんならまだしも、こんなショボくて汚いオッサンなんか、こっちも願い下げだぜ・・・まったく、勝手に俺を呼び出すんじゃねぇ!」 ― 呼び出す?・・・君を?私が?・・・ ― 「ウザイな、オッサン。さっ、早いとこ決めな、どこから切り刻む?」 恐ろしいほど冷酷な眼で私を睨みながら、若者が、親指の腹でバタフライナイフの刃をなぞった。恐怖が一瞬にして増大した。 ― ま、待ってくれ! ― 「ウゼェ~よ!」 若者が怒鳴る。 ― ま、待ってくれ! ― 懇親の力を込めて私は叫んだ。だがやはり、その叫びは声にはならなかった。 ― 何故だ!誰か!誰か助けてくれ! ― 視線の向こうで遊ぶ子供の親達に向かって、私は必死に叫んだ!だが、誰一人としてこちらを見ようとする気配がない。 ― 何故だ?・・・声になっていないのだから聴こえていないのはわかるとしても、見えているはずだ。バタフライナイフで私を脅しているこいつの姿が。こいつにいたぶられている私の姿が。私の声が聴こえていなくても、今、こいつが私に怒鳴った声は聴こえただろう!・・・誰か、誰か助けてくれ! ― 叫んでも声にならないもどかしさ、逃げようとしても動かぬ体の情けなさ、そして、己の許容を超えた恐怖に、私は泣きたくなった。いや、実際、私は泣いていた。 突然、また、眼の前が暗くなって閃光が走った。 脳みそをグラグラと揺らしながら頭のてっぺんを突き抜ける衝撃が、そして、ジンジンとして鈍く重い顔面の痛みが私を襲う。 私の体は弾け飛び、ベンチの上に横倒しになった。口の中の血の味が濃くなった。 「言葉遣いに気をつけろと言っただろう、オッサン!」 私は殴られたのだ。それも、今度は、平手ではなく拳骨で。 グラグラと揺れる脳みそから離れ浮遊する意識の中で、私は考えていた。 ― 悪夢だ・・・これは絶対、夢だ。こんな・・・こんな事があるはずがない。夢だ、絶対に夢だ。私は夢を見ているんだ。早く、頼むから早く醒めてくれ。気が狂いそうだ ― 私は懸命に願った。願うしか出来なかった。 「無駄だって言ってんだろ、オッサン。」  冷たい笑いを薄く顔に浮かべながら、若者が私の頬にバタフライナイフの刃を当てる。 ― 私は殺されるのか?・・・嫌だ、こんな理不尽な、こんな屈辱的な死に方は嫌だ・・・誰か、誰か助けてくれ! ― 私は泣き叫んだ。何度も、何度も。 若者が笑い出した。大きく、さも愉快そうな笑い声で。 「ハッハッハッハ、オッサン、なに言ってんだ?死にたくないだって?」 涙のせいで、若者の姿が霞んで見えた。 「あんた、もうほとんど死んでんだぜ。だから、此処にいるんじゃねぇか。」 私は、若者の言っている事が理解出来なかった。 「オイオイ、憶えてねえのかよ?」 若者は、まだ笑っていた。 「本当にアホなオッサンだな、あんた。あんた、自分で此処に来たんだぜ、誰も呼んじゃいないってぇのに。自分で選んだんだ、こうなる事を。」 ― 選んだ?・・・こうなる事を?・・・私が? ―  何もかもが理解不能だった。 「おいおいおい、頼むぜ、オッサン。本当に憶えてねえのかよ?」 若者が私に訊いた。 私はなんの答えも持ち合わせていなかった。恐怖に流した涙で、霞んだままの若者の姿を見つめるしか。 「・・・ったく!どおりで、往生際が悪い訳だぜ。」 若者が吐き棄てるように言った。 「オッサン、あんた、自殺したんだよ。薬を飲んでな。正確に言えば、まだ完全にくたばっちまった訳じゃないが・・・だが、それも時間の問題だ。あんたはもう、死んだも同然なのさ。」 ― ?・・・私が、自殺した?・・・何を言ってるんだ?・・・私は此処にいるじゃないか・・・ ― 「煩わせんなよ、オッサン!」 若者が睨んだ。だがすぐに、私を睨むその眼の奥に「ぞ~っ!」とするほどに冷たく鋭利な光が浮かぶ。若者の口の端が緩んだ。 「そっちの方が・・・面白いか?・・・」 若者が独り言を呟いた。 悪寒が走った。どうにもできない恐怖の中にあって、さらに嫌な予感がしたからだ。 「見せてやるよ、無様なあんたの死に様を。味わわせてやるよ、後悔を、あんたの愚かさを、そして、絶望を。 自分の愚かさを嘆き、後悔に泣き喚きながら、俺に切り刻まれる恐怖に怯えなよ。楽しませろ、俺を!笑いながら切り刻んでやるよ、オッサン、あんたを。」 若者はそう言うと、私の顔前に掌をかざした。一瞬、無意識に私は瞼を閉じた。すぐに瞼を開くと、すでに、若者のかざした掌は消えていた。 「さあ、見ろ。あれが、あんたの無様な死に様だ。」 私は、若者が指差した方を見た。 男が一人、眠っているかのようにぐったりとベンチに腰かけていた。 フード付きの紺色のアノラックを着て、黒の長靴を履いた男だった。グリーンとモカの毛糸で編まれた暖かそうなマフラーを首に巻いている。 男の足元の地面には、煎茶の飲料缶と、破られた薬のアルミ箔が何枚か落ちていた。 「見えるだろ、オッサン。あれ、あんただぜ。」 若者が言った。 ― あれが・・・私? ― 「とっとと思い出せよ、オッサン。」 若者のその言葉が、なぜか呪文のように頭の中で響き続けた。 私は、私だという男を見続けながら、自分の記憶の糸をどうにかして探し出し、そしてゆっくりと手繰った。 少しして、朧気ながらも、脳裏に記憶の中の映像が浮かび上がった。 ― マフラー・・・そうだ、あのマフラーは・・・ ― 最初に蘇った記憶は、グリーンとモカの毛糸で編まれたマフラーの記憶だった。去年の冬、妻が私のために編んでくれたマフラーだった。 会社が倒産して私達が無一文となって迎えた初めての冬、悲嘆にくれる私を少しでも励まそうとしてくれたのか、 「これ、古くなってもう着れないから・・・」 と、妻が自分のセーターの毛糸をほどいて、私のために編んでくれたのがそのマフラーだった。 編みあがったそのマフラーを、妻が私の首に巻いた。ふんわりとした柔らかさが心地好く、とても暖かで、落ち込み、萎えていた私の心は安らいだ。 嬉しかった。私は本当に嬉しかった。私の事を気遣ってくれる妻の優しさが堪らなく嬉しかった。 なのに・・・なのに私は、その嬉しさを言葉にして妻に伝えるどころか、「いい歳をしてこんな色のマフラーなんか巻けるか」と、妻に向かってそう言ってしまった。 あの時の妻の顔、妻が一瞬見せた寂しげで悲しそうな顔を忘れない。 妻はすぐにその顔を隠して気丈に言った。「そうね、ちょっと派手だったかしら・・・」と。 私は心が痛んだ。胸の内で己の過ちを罵った。人としての己の器の小ささを嘆いた。 たった一言でも良かったのだ。たった一言、「ありがとう」と言うだけで・・・。 だがあの時、私はそのたった一言が言えなかった。事業の失敗による挫折感が、そして、人生の敗北者となってしまったという思いが、私を覆っていた。 経済的な富も、築き上げて来た人々からの信頼も、約束されていたはずの未来も、すべてを失ったという喪失感が私を屈折させていた。 そして何よりも、健気な妻に、彼女が大事にしていたセーターをほどいてまで私を気遣い励まそうとさせてしまった事が、無性に情けなかった。 だから私は、素直に言えなかったのだ。たった一言の素直な気持ち、「ありがとう」と言う言葉が。 妻がほどいたセーターを彼女がどんなに大事にしていたか、私は知っていた。 妻の35歳の誕生日に、今は亡き彼女の両親からプレゼントされた、妻にとっては大事なセーターだった。 以来、毎冬、シーズン初めに、妻はそのセーターを真っ先に着ていた。 本来なら、私が妻を気遣い、守ってやらなければならなかったのだ・・・夫であるこの私が・・・。 だが、あの時の私には、その余裕も気力も無かった。 ただただ、挫折感や喪失感といった自分の内に湧き続ける感情だけに囚われ、妻の様子に気を配る事も忘れ、ただの卑屈な男と成り下がり、私を見つめる妻の視線から意識的に眼を逸らしてばかりいた。 私への優しさと労わりを見せる妻の眼差しが、嬉しく愛しかったにもかかわらず・・・。 私は逃げていたのだ。あの時の私にはもう、なんの自信も余裕もなかった。 僅かに残っていたのは、虫の息ほどの屈折したプライドと、自分を誤魔化すための強がりだけだった。それが私の精神の崩壊をくい止め、命を繋いでいた。 私は怖かった。自分の弱さと不安を曝け出し、妻の見せる優しさと労わりに甘えてしまう事で、それさえも無くしてしまう事が怖かった。 妻だって苦しかったはずだ。おそらく、私以上に・・・。 ある日、突然、妻もすべてを失ったのだ。長く慣れ親しんだ我家も・・・その家での生活も・・・周りに溢れていた、友と思っていた人々さえも・・・。 妻が途方に暮れなかったはずはないし、傷つかなかったはずはない。私の事業の失敗になんの責任もない妻こそ、私以上に喪失感を感じていたはずだ。 今にも崩れそうなボロボロの古いアパートの小さな部屋での新しい生活、慣れないパート勤め、そして、初めのうちだけ遠慮気味にかけられていた親交のあった人々の形だけの同情は、時が経つにつれ、次第に距離を置いてのコソコソとした囁きとなり、終いには堂々とした無視となった。 そんな急激に変化した私達の生活と人々の仕打ちに、妻はどんなに傷つき、打ちのめされた事だろう。 なのに、妻は私の前ではいつも笑顔だった。なに一つ愚痴もこぼさず、文句も言わず、常に私の事を優しく気遣ってくれていた。意気地なく、自分の事しか考えられなかった情けない私を・・・。 妻の方が泣きたかったはずだ。 あの時、私こそが、慣れぬ新しい生活と不安の中にいた妻を慰め、励まし、気遣わなければならなかったのに、自暴自棄となっていた私は、働きもせず、妻がパートで稼いで来た金を掠めては、酒代にして飲んだくれていた。 妻こそが、未来になんの光も見えぬ絶望の中にいたのだ。私は、それをわかっていたというのに・・・。 私は、落ちぶれた自分から、その現実から逃避するだけで、妻になんの救いの手も差し伸べなかった。その事を、妻を失ってからどれほど後悔した事か。 いや、その事だけではない。妻と結婚した事以外の、妻に対する自分のすべての行動が後悔だらけだった。 何故・・・何故、もっと優しく接してあげられなかったのだろう。 何故・・・何故、もっと二人の会話を大事にしなかったのだろう。 何故・・・何故、もっと二人一緒の時を持たなかったのだろう。 すべてが後悔で、そして、手遅れだった。 あの美しく、優しく、健気だった妻を失った喪失感に比べれば、それまでに感じていた喪失感などは比べ物にもならなかった。 妻を失って改めて私はそれに、私にとっての妻の存在の自覚していた以上の大きさに気付かされたのだ。 私は想い出した。 妻の死後、初めての冬を迎え、私は妻が編んでくれたあのマフラーを手にした。妻の優しさと悲しさで編まれたあのマフラーを・・・。 「フフン、思い出したみたいだな、オッサン。いいぞ、その調子だ。」 若者が冷たく笑った。 私はすべてを想い出した。 ― そうだ、私は自殺しようとして睡眠薬を飲んだんだ。もう、すべてが耐えられなくなって、何包かの睡眠薬を手に持ち、途中にあった自動販売機で茶の缶飲料を買って、いつものようにこの公園にやって来た。 そして、ベンチに座り、手にしていた睡眠薬をすべて口の中に放り込み、缶飲料の茶でそれを胃の中に流し込んだ。 死ねば、すべての事から開放される。楽になれる。そして・・・妻に逢える。そう思って・・・ ― 「そうだよ、やっと思い出したか、あんたは自殺したんだ。」 ― じゃあ、此処は?・・・此処は、あの世なのか?・・・ ― 「ハァン?あの世ってなんだ?そんなもん、知らねぇな。」 ― ・・・?・・・じゃあ、此処はどこなんだ?・・・ ― 「此処は、どこだ?だって・・・」 呆れたように、若者が吐き棄てて言った。若者の冷たく鋭利な眼光が私を貫く。 「俺の公園さ。」 ― 君の公園?・・・あの世じゃないのか?・・・私は死んだんじゃないのか? ― 「・・・ったく、面倒なオッサンだな。」 小さくそう呟いてから、少し間を置いて若者が思い直したように言った。 「まっ、いいや。俺がより楽しめるように、教えてやるよ、オッサン。あんたに、より大きな絶望と後悔を味あわせてやる。その絶望と後悔の中で、思いっきり泣き叫びながら、俺に切り刻まれな。」 バタフライナイフの刃の両面を穿いているジーンズに拭い、刃の曇りがなくなったのを確認すると、若者が私に視線を戻した。 「死ぬ事で、すべてから開放されて楽になれるだって?・・・死後の世界がどんなものか、どんな形、どんな景色を死者に見せるのか、知ってるつもりだったのか、オッサン? つくづく、アホなオッサンだぜ。死後の世界を、見た事はおろか、その姿を探求してみようとした事もないくせに、自分勝手に都合良く思い込んでいやがる。 死後の世界が、死以前の世界と無関係に形作られてると思ってたのか? 残念だったな、オッサン。死後の世界は、そこに来る手順を間違えちまった奴には、死以前の世界と変わらぬ姿を見せるんだ。 唯一の違いは、そこには、必ず俺が居るって事だ。 この世界の管理者であり、裁定者であり、死者の扱いを自由に、好きに決定する事が出来る、それが俺だ。 俺は、あんたを切り刻む事にした。オッサン、あんたは、ここで永遠に俺にいたぶられるんだ。あんたは俺に抵抗する事も、その恐怖から逃れる事も出来ない。 俺に永遠に切り刻まれ、痛みに絶叫し続けるんだ。死者となったあんたに、もう二度と死はないんだからな。 永遠にあんたに付き合わなきゃならなくなった可哀想な俺を、せいぜい楽しませてくれよ、なあ、オッサン。」 若者は、そう言ってケラケラと笑った。 「あっ、そうだ、もう一つ、あんたに教えてやるよ。あんたが、死ねば逢えると思ってたあんたの奥さんは、此処にはいないぜ。 あんたの奥さんは、此処とは別の死後の世界にいる。あんたが今いる此処とは、決して交わる事のない、彼女自身の死後の世界にな。 死後の世界ってのは、一人一人にそれぞれ存在してるんだぜ。そして、そのそれぞれの死後の世界がどんな形と景色を死者に見せるのかは、死以前の世界での生き様と、この世界に来る時の手順によって決定されるのさ。 だからオッサン、あんたが勝手に思い込んでいた望みは叶わない。 ほんと、つくづくアホで、自分勝手なオッサンだよ、あんたは。 考えても見ろよ、あんたの死んだ奥さんが、死んでからもあんたみたいな奴に煩わされなきゃならなかったとしたら、それこそ悲惨だろ?・・・酷過ぎるだろ?」 私はショックを受けた。 今、若者が私に言った事をそのまますべて信用した訳ではない。なのに何故か、その事を納得し受け入れているもう一人の自分が自分の中にいた。 すべての苦から開放されて楽になろうと思って自殺したのに、楽になる事は許されず、先に逝った妻に逢えると思っていたのに、それも許されない。そんな事は信じたくなかった。 ましてや、抵抗する事も、逃げ出す事も出来ずに、ただこの若者に永遠にいたぶられ、切り刻まれるだけの世界に私が来てしまったなどという事を・・・。 若者が言ったように、それは私にとって、それ以上はない絶望であり、後悔だった。その事にショックを受けながらも、私の中のもう一人の私が呟いていた。 ― 地獄・・・そうだったのか、ここは罪人の堕ちる無限の地獄だったのか・・・もっともだな、この私が安らかな天国に行けるはずなどない。私は自分の事しか考えられず、私と同じように苦しんでいた妻を、その苦しみの中に置き去りにしたんだ。 妻は、救いを求めながらも救い無き事に必死に耐え、自らが絶望的な苦の中にありながらも、懸命に私に救いを与えてくれていた。 私が自殺するのに使った睡眠薬は、妻が隠し持っていたものだ。 慣れぬ生活と絶望的な苦の中、眠れない日々が続いていたのであろう。妻の死後、私はそれを発見した。 処方薬の説明書と、袋に入った何包かのその睡眠薬を見つけた時、私は自分を罵る事しか出来なかった。自分の愚かさを呪った。不甲斐なさを罵った。 それほどまでに妻が無理を重ねていた事に私が気付いてやっていたら、妻の抱えていた不安を、ほんの少しでも和らげ癒せていたら、妻があの事故に遭う事はなかったかもしれない。 妻を撥ねてしまった車の運転手と、その事故を目撃していた人の話では、歩行者側の信号が赤だったにもかかわらず、妻がフラフラと横断歩道を渡りだしてしまったらしい。 警察は最初、自殺の可能性も考えていたようだ。だが結局、妻の死が不慮の事故だったのか、それとも自殺だったのか、真相はわからなかった。 私にとっては、どちらでも同じ事だ。妻の死が事故だったにせよ、自殺だったにせよ、妻をそういう状況に追い込んでしまった責任は私にあるのだ。妻になんの救いの手も差し伸べてやらなかったこの私に。 この若者の言うとおりだ・・・妻こそが、死んだ事でこの私から解放されたのだ。それなのに私は、死ねば、また再び妻に逢えるなどと・・・ ― 私の中にいるもう一人の私は、すべてを納得した。 「おいおい、オッサン、なに納得してんだよ!それじゃ、全然つまんねぇだろ!俺が楽しめねえじゃねえか。」 若者が、怒りの形相を見せて怒鳴った。 感じていた恐怖が弱まっていた。自分の犯した過ちのすべてを想い出した今、自分が何故ここにいるのかを理解した今、この若者が私にしようとしている事に怯える事も、それに抵抗しようとする事も、もう不必要だった。 ― 好きにすればいいさ・・・今感じている絶望など、よく考えれば、大した絶望ではない。私はもうすでに、二度も絶望を経験しているのだ。事業の失敗と、そして、悔やんでも悔やみ切れない妻の死という二度の絶望を・・・だから、自ら死を望んだんだ。生きる気力も、その意味も失って。 味わった二度の絶望は、どちらも自分の蒔いた種であり、自分の責任だ。私のどうしようもない愚かさが招いた絶望だ。 その私の愚かさを考えれば、私が此処に来てしまった事も、永遠に君に切り刻まれる刑も、当然の事なのだろう。 一つだけ、悔い・・・いや、残念な事は、一目だけでも、妻に逢って詫びたかった。 だがそれも、結局は自分勝手な思い込みだった。君が言うように、死後も私のような愚かな者に煩わされなければならないとしたら、あまりにも妻が可哀相だ。 これで良いんだ、私は、こうなって当然なんだ。 ― 「チェッ!」 若者が舌打ちした。 「逆効果だったか・・・クソッ!俺とした事が、ヘマこいちまったぜ。」 苦虫を噛み潰すように顔をしかめながら、若者が唸るように低く呟いた。若者は私を睨みつけながら、何かを思案していた。 若者が何を考えているのか、もう、私にはなんの恐怖も、興味もなかった。 彼が何を考えて、何を思いつこうが、もうどうでも良い事だった。 私は、自殺して此処に来る以前にも地獄にいたのだ。絶望という地獄、そして、その絶望にさらに、耐え難くどうにも出来ない孤独が加わった地獄に。 その地獄で味わったあの魂の痛みに比べれば、妻が私との関わりから解放され救われたのだという事を悟った今、今いるこの地獄で味わうのであろうナイフで切り刻まれる体の痛みや恐怖など、なんて事はない。 絶望は続くにしても、少なくとも孤独からは開放される。この若者が、永遠に私だけを見ながら私と関わってくれるのだ。 たとえその関わり方が、狂気を含んだ視線と、侮蔑に溢れた感情から放たれる残虐なものだとしても、もうなんの希望も、何をする気力も持ち合わせていない今の私にしてみれば、有り難くさえ思えるほどだ。 「だったら・・・」 若者が、そう言ってニヤリと笑った。 「ちょっとばかり、ルールを変えるか・・・」 ― ん?・・・ルールを変える?・・・ ― 「ああ、此処と、あんたの奥さんの死後の世界をリンクさせて、俺に切り刻まれてあんたが感じるはずの痛みを、あんたの死んだ奥さんが感じるようにするのさ。あんたの死んだ奥さんが、あんたの身代わりになって痛みと恐怖に泣き叫ぶんだ。」 ― 馬、馬鹿な・・・ ―  背筋が凍った。 「勿論、あんたの死んだ奥さんが痛みと恐怖に泣き叫んでる声は、あんたには聴こえないし、もがき苦しむ姿も見えない。俺には聴こえるし、見えるがな。」 あの残忍で冷酷な笑みが、若者の顔に浮かんでいた。 「楽しいぜ、きっと。」 ― 死後の世界は、一人一人それぞれ別で決して交わらないんじゃなかったのか!妻と私の関わりは、もう無くなったはずじゃなかったのか! ―  私は叫んだ。 「フンッ!」 若者が、鼻で笑った。 「おいおい、俺はこの世界の管理者で、裁定者だぜ!この世界のルールを決めるのは俺だ。残念だったな、オッサン。ルールは、俺の好きなように自由に決められるんだ。俺がより楽しめるようにな。」 ― そ、そんな・・・よせ、やめてくれ! ― 恐怖が蘇っていた。 「そうそうそう、いいぞ、オッサン。その怯えた顔、いい感じだ。そうでなくっちゃな。」 ― 頼む・・・頼むから、それだけはやめてくれ。妻を巻き込むのだけは・・・妻は死んでやっと私から解放されたんだ、楽になれたんだ。だから・・・だからそれだけは・・・頼む、やめてくれ ― 「ハッハッハ。」 愉快そうに声を上げて、若者が笑い出していた。 「嫌だね!最高のアイディアじゃねえか。死んでからも、かつての夫婦で仲良く泣き叫ぶんだ。あんたの奥さんは、自分の体に走る理由のわからない激痛と、その恐怖に、あんたは、何もできないその辛さに。 俺に切り刻まれて流れる血を見るたびに、体にその痛みを感じるんじゃなくて、あんたの魂に激痛が走るんだ。 そして俺の耳には、死んだあんたの奥さんが、痛みと恐怖に泣き叫んでいる声が聴こえる。最高だぜ!これ以上のいたぶり方はねぇんじゃねえか?なあ、オッサン。」 ― やめろ!やめてくれ! ― 私は泣きながら叫んだ。ベンチの上に横倒しになっている自分の体をなんとか起こそうと力を振り絞るが、やはり、体はなんの反応もしない。 もどかしかった。動かぬ自分の体が。 ―何故だ、何故、動かないんだ。こいつを、こいつを止めるにはどうすればいいんだ― 「オッサン、無駄だって言ってんだろ。オラッ、オラッ。」 若者が片足を上げ、スニーカーの底で私の体を揺する。 ― クソッ!お前なんかに・・・お前なんかに、妻までいたぶられてたまるか! ― 怒りが湧いて来た。今度は怖々とした怒りではなく、鮮明で怒涛のような怒りだ。 「何度言っても、言葉遣いがなってねぇな、オッサン。だが、今は許してやるぜ。俺は今、メチャクチャ気分がいいからな。感謝しろよ。」 若者が、スニーカーの底を私の顔に押し付けて言った。 「それに、恨むんなら、俺じゃなく自分を恨め。もとはと言えば、すべてはあんたが招いた事だ。あんたが自分で選んだんだ、此処に来てこうなる事を。俺はただ、より良いアイディアを思いついただけさ。」 確かにそうだった。若者の吐いた言葉に愕然として納得し、怒りが萎えそうになる。 だが、私は必死にそれを堪えた。怒りを萎えさせる訳にはいかなかった。なんとしても、妻を巻き込むのだけはやめさせなければならなかった。 ― 体さえ・・・この体さえ動けば・・・こいつを、絞め殺せないまでも、こいつにしがみついて自由を奪う事ぐらいは出来るかもしれないのに・・・くそっ!くそっ!何故動かないんだ・・・ ― 「ハッハッハ、無様だな、オッサン。だが、いい感じだぜ。その調子で頼むぜ!もっともっと俺を楽しませろよ!」 若者は嬉々とした顔をしてそう言うと、バタフライナイフをデニムの尻ポケットに仕舞い込んだ。 「さてと、早速支度にかかるか。オッサン、ちょっと待ってろ、すぐ済むからな。ほんのちょっとだけ眠っててくれや。」 若者が、そう言って私の顔の前に掌をかざす。 ― よせ!やめろ! ― 私はそう叫ぶ事しかできなかった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!