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帰還
◆ 帰還 ◆
頬に冷たさを感じて私は目覚めた。まるで夢でも見ていたかのように、眼の前に広がる景色が一変していた。
― 此処は・・・ ―
「目覚めたかい、オッサン。」
心臓が止まりそうになるくらいに嫌な声だった。二度と耳にしたくなかった声だ。
「さあ、始めようぜ!お楽しみを。」
私は絶望を感じながら、辺りをもう一度見回した。
いつのまにか、辺り一帯をうっすらと雪が覆っていた。私が頬に感じた冷たさは、その雪の冷たさだった。
一変していたのは、雪を纏った辺りの色彩だけで、そこが、さっきまでと同じ公園である事、自分がベンチに横たわったままである事、口の中で血の味がしている事、まだ耳鳴りがして痛みが走っている事、そしてなによりも、あの若者がバタフライナイフを手に私を見下ろしている事に変化はなかった。
― 景色が見せる色彩以外は、何も変わっていない・・・ ―
私は落胆して呟いた。
「よく見てみろよ、オッサン。」
― ?・・・ ―
「あそこだよ。」
私は、若者が眼をやった方に視線を移した。少し離れた所に、そこにだけ空から一筋の光が射していた。眩しく、とても暖かそうな光が。
「あれが、あんたの死んだ奥さんのいる死後の世界さ。あんたの眼には細い一筋の光にしか見えてねぇだろうが、中は、そこにいる死者にとって、無限の広さを持ってるんだぜ。」
私はその光に魅入った。
束の間、この後味わうだろう凄惨な地獄の事を忘れた。瞳が潤み、胸の底からの嗚咽と共に涙が込み上げる。
― あの中に・・・あの光の中に、妻が、小枝子がいるのか?・・・ ―
愛おしさと一緒に、安堵が湧き上る。妻が、あの眩しく暖かそうな光に包まれた、おそらくそこは天国なのであろうと思われる死後の世界にいる事を、確認できた安堵だった。
― 良かった・・・本当に良かった・・・ ―
私は心の底からそう思った。
「おいおい、あんたを喜ばせるために、此処にあんたの死んだ奥さんの死後の世界をリンクさせた訳じゃないぜ。勘違いすんじゃねぇぞ、オッサン。」
そうだった・・・若者のその言葉に、私は強引に現実に引き戻された。
― 頼む、頼むから、妻を巻き込むのだけはやめてくれ。なあ、頼むから・・・ ―
若者を見上げ、私は懇願した。
「フンッ、嫌だね。」
鼻で笑ってそう言うと、若者はあのゾッ!とするほどに冷たく残忍な笑みを顔に浮かべた。
「もうすでに、興奮で体中がゾクゾクするぜ。さぞかし快感だろうな、なんせ、嘆きと絶叫の二重奏だぜ。」
絶望どころか、私の魂はその絶望の淵から、さらに底なしの奈落へと墜ち込みそうになる。私は必死に堪えた。なんとしてもこの若者の残忍な思いつきを止めなければならなかった。
― どうすれば・・・どうすればいいんだ。くそっ、体さえ・・・この体さえなんとか動けば・・・動け、動いてくれ! ―
私は懸命にもがいた。
若者が笑う。
「無駄だって、オッサン。」
バタフライナイフを宙にかざし、その刃の輝きを確認しながら若者が言う。
― くそっ、何故、何故動いてくれないんだ! ―
私はもがき続けた。動かぬ自分の体の不自由さに、何度も抵抗を試みた。だが、どれだけ試みても、私の体はなんの反応も示さない。
それでも諦める事は許されなかった。どんなに無様で、どんなに滑稽だろうと、諦めてはならなかった。私の、私の体への抵抗は続いた。
「ハッハッハ、だから、無駄だって言ってんだろうが、オッサン。」
嘲笑いながら、若者がバタフライナイフの刃の側面で私の頬をピタピタと叩く。
「あんたは、睡眠薬を飲んで自殺したんだぜ。自分の死期が、まだ来ちゃいねえってのによ・・・定められた死の時を迎えれば、肉体と切り離されて自由になれるはずの魂を、薬によって動けなくなっちまった肉体に縛り付けたまま、無理やり死んじまったんだよっ。
だから、どう足掻いたって動けるはずねぇ~んだよ、あんたは。
言っただろ、死後の世界は、死以前の世界と無関係に形作られてないって。此処に来る手順を間違えた奴には、死以前の世界と同じ形と景色を見せるんだって。
定められた死の時を迎える事なく死んじまったあんたの魂は、薬によって強引に動かなくなっちまった体に永遠に縛り付けられたままなんだよ!
あんたの体が、主のあんたの意思に呼応しないは、あんたが飲んだ薬のせいさ。死ぬ時と、死に方を自分勝手に選んだ、あんた自身のせいさ。
つくづく馬鹿で、アホで間抜けなオッサンだよ、あんたは。
自分から進んでこの状況を招いたってぇ~のに、今さら悪足掻きしてやがる。ほんと、無様で、滑稽で、醜悪だね。」
バタフライナイフの鋭利な刃を立てて私の頬に当て、笑いながら若者が微かにその手を引いた。
痛みは感じなかった。切り口から滲み、零れた血が頬を伝う。
「なあ、痛くねえだろう。さて、問題です。オッサン、あんたが感じるはずの痛みは、いったいどこに行ったのでしょう?」
若者がケラケラと笑った。残忍な、おぞましい笑いだった。
「オオッ、聴こえる聴こえる。いい悲鳴だぜ!あんたの死んだ奥さん、なかなかいい悲鳴を上げるじゃねえか。最高だぜ!」
私は、慌てて射している光の方を見た。
「無駄、無駄、あんたには、な~んも見えねえし、聴こえやしねぇよ。」
― 小枝子・・・ ―
心臓を鷲掴みにされ、握りつぶされようとしてでもいるかのような胸の痛みが、息を吸えども吸えども呼吸がままならないような息苦しさが、髪の毛を掻き毟りたくなるほどにやり場のない混乱が、私を襲う。
「悪いな、オッサン。せめて最初にどこから切り刻むかは、俺の情けでオッサンに決めさせようかと思ってたんだが・・・あまりの興奮と期待に、勝手に始めさせてもらったぜ。
こりゃ~、期待以上の快感だな。さあ、どんどん行こうぜ!この堪らない快感に永遠に浸らせてもらうぜ!」
貫くように私を凝視している若者の眼が、快感と興奮にギラギラとしていた。私を見下ろしたまま、バタフライナイフに付いた血をベロリと舌で舐め、それを味わうように口の中で舌をクネクネとさせながら、再び私にナイフを近づける。
― やめろっ!貴様なんかに、貴様なんかに、小枝子をいたぶられてたまるか!ぶっ殺してやる! ―
私は叫んだ。もうなんの恐怖も絶望も感じない。あるのはただ、止まる事なく湧き続けるこの若者に対する怒りだけだった。
「ハッハッハ、やってみろよ。オラッ、オラッ、オラッ、抵抗出来るんならやってみろよ、オラッ!」
愉快そうに笑いながら私の腹に膝を打ち込み、片手で首を絞め、ナイフを顔のすぐ前で踊らせながら若者が私を煽る。
「聴こえるぜ、聴こえるぜ、あんたの死んだ奥さんの悶絶しそうな掠れた嗚咽が。見えるぜ、痛みと、呼吸の出来ない苦しさに歪むあんたの死んだ奥さんの顔が。こりゃ~最高だな。」
私は若者を睨みつけた。憎悪が気力となり、私の魂を鼓舞する。
「憎いか?どうだ、オッサン。殺したいだろう?俺を。」
若者がのけぞって笑う。
「残念でしたぁ~、あんたは、何も出来ねぇんだよ。さぞ、もどかしくて、悔しくて、堪らないこったろうな。」
次の瞬間、笑っていた若者の表情が一変する。
「オラッ、オッサン!悔しさに泣け!堪らなさに泣き叫べ!もっともっと、俺を楽しませろや!」
狂気の叫びを上げながら、若者が私の顔面を殴る。
― 小枝子・・・ ―
私の視線と意識は、すぐそこに差し込んでいる光の中へと向かった。見えぬ妻の姿に。痛みに悲鳴を上げているであろう、聴こえぬ妻の声に。
「無駄だって言ってんだろうが、オッサン。あんたには何も見えねえし、何も聴こえねえんだって。」
若者の視線が、バタフライナイフの刃の輝きを愛でてからゆっくり私へと移った。
― くそっ!よせ、やめろっ! ―
「さて、あんたの死んだ奥さん、次はどんな悲鳴を聴かせてくれんのかな。」
おぞましく狂気にギラついた眼を剥きながら顔を私に近づけ、若者が私の胸にナイフの刃を当てる。
― よせ!やめろ! ―
「呪うなら、自分を呪えよ、オッサン。自分の愚かさを。」
若者が静かに冷たく笑った。
― くそっ!よせっ!貴様なんかに、貴様なんかに! ―
若者の眼のギラつきが増した。
― 貴様~! ―
私の怒りと憎悪が沸点に達した。
その時、奇跡が起きた。私の右手が、若者が着ているTシャツの胸倉を掴んでいた。
驚きに眼を剥きながら、若者が私のその手を見る。
私は、あらん限りのおもいっきりの力を手に込めて、若者のTシャツを自分の方に引っ張った。Tシャツの生地が伸びて止まり、小刻みにプルプルと震える私の手が、ゆっくりと若者の体を私の方に引き寄せる。
「貴様なんかに・・・」
声が戻った。
「妻をいたぶらせてたまるか~!」
怒りにまかせて私は叫んだ。
左手で、若者のナイフを持っている方の手首を掴み、懸命にベンチから体を起こそうとした。私は必死だった。体の自由と声を取り戻せたからといって、この若者が妻をいたぶるのを止める事が出来るかどうかはわからなかったからだ。
それに、取り戻したとはいっても、体の自由は完全にはほど遠かった。すべての関節と筋肉はまだ麻痺感を残し、なぜか、意識が朦朧として浮遊し始めようとしていた。
私は浮遊しそうになる自分の意識を必死につなぎ止め、完全なコントロールにはほど遠い筋肉に無理やり強引に力を込めた。
まずはなんとしてでも、若者からナイフを取り上げなければならなかったからだ。
不思議な事に、若者は抵抗する私を押さえ込もうとも、蹴り倒そうともしなかった。
そうしようと思えばいくらでもできたはずなのに、若者はまるで、私の回復ぶりを推し量ってでもいるかのように、明らかに私に合わせて力の加減をセーブしていた。
さらに奇妙だったのは、そうして揉み合っている内に、私を見る若者の瞳から、あの冷たい光と残虐さが消えて涙が零れ出した事だ。
私は確かにそれを感じ取り、零れる涙を確認したが、とにかくただひたすらに妻を救おうと必死だった私には、それが何故なのかは勿論、それが何を意味するのかを考える余裕などまったくなかった。
どうにか繋ぎ止めている私の浮遊しそうな意識が、その鎖を今にも引き千切ろうとしていた。
私は焦った。この若者に妻をいたぶられる恐怖と、それを止められぬままに浮遊し出しそうな己の意識の、両方と戦わなければならなかったからだ。
「くそっ~!」
私は叫んだ。
焦るだけでどうしたら良いのかわからなかったし、どうする事も出来なかった。腕に、そして、全身に込めていた力が、ゆっくりと少しずつ萎えて行く。
意識がついに浮遊し始めた。その間際、私は光の方を見た。
「小枝子・・・」
叫びが呟きとしかならなかった。その呟きに応えでもしたかのように、声が聴こえた。
「あばよ、オッサン。薬の量が、死ぬには少し足りなかったみたいだな・・・お楽しみはこれからだって時に、生き返っちまいやがって・・・残念だぜ、死者じゃない奴には手は出せないからな。だが覚えとけよ、今度逢った時は、二人とも、もっといたぶってやっからな!」
捨て台詞のような若者の言葉だった。
― 生き返った?・・・そうか、それで体の自由が戻ったのか?・・・じゃ、助かったのか?私も、小枝子も・・・良かった・・・本当に・・・本当に良かった ―
浮遊しだした意識の中で、私は深い安堵に包まれていた。
「とっとと、あっちの世界に帰んな!」
最後に朧気ながら見えた若者の瞳からは、私の気のせいだろうか、まだ涙が零れ続けていた。
― 私達をいたぶれなくなった悔し涙か?・・・ ―
そう思った時、浮遊した私の意識が途切れて消えた。
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