雪景色の中で・・・

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雪景色の中で・・・

◆ 雪景色の中で・・・ ◆ 気が付くと、私はベンチの上に仰向けに寝ていた。頭の中はぼんやりとしてはっきりせず、全身には重い怠さが残っていた。 空から、湿った雪が純白の花弁となってひらひらと舞い落ちていた。顔に降り落ちては融けて水滴となるその雪のせいで、私の顔はびしょ濡れだった。 全身の怠さに堪えながら、ゆっくりと手を顔に当てて私は顔を拭った。それから顔を横に向け、辺りの様子を確認する。 一面の雪景色だった。あの若者の姿は勿論、射し込んでいた光は消え失せていた。此処が見覚えのある、いや、自分がさっきまでいた公園である事、それだけが変化していなかった。 改めて安堵に包まれる。私はあの地獄から生還し、そして、妻の小枝子も救われたのだ。 降り落ちてくる雪を顔に受けながら、私は暫くそのままじっとしていた。 次第に、寒さと雪の冷たさをはっきりと感じ始めた。そのせいか、全身の怠さはそのままだったが、頭の中のぼんやりが少しずつ薄れだし始めていた。 私はゆっくり体を起こすと、ベンチの背もたれに体を預けた。 首に巻いたマフラーが雪に濡れていた。雪と水滴を払い落とし、マフラーの端を手にして顔を埋めた。微かに、記憶の中にある妻の香りがした。 私は泣いた。愛しさと、寂しさと、後悔と、そして安堵に翻弄され、堰を切ったように私は号泣した。 深々と雪が降り積もるだけの静寂の中に、嗚咽が響く。救いも、浄化もされる事のない涙と嗚咽だった。 雪の中で暫く泣き続けていた私の耳に、はしゃぐ若い女の声が聞こえた。何故か、私は顔を上げ、その声がする方に無意識に眼をやっていた。まだ年若いカップルが、いちゃつきながらこちらへ歩いて来るのが見えた。 初冬の雪の日だというのに、若い女は素足にチェックのミニスカートで、コートも羽織らずに、ジャストフィットの窮屈そうなGジャンを着ていた。真っ直ぐな長い茶色の髪に雪が付着し、履いている編み上げのスエードのブーツは雪に濡れて染みを見せていた。 相手の若い男は・・・男を見て、私の全身が一瞬で恐怖に硬直した。あの若者だった。私と、死んだ妻を、いたぶろうとしたあの若者だ。私は混乱した。 ― 何故・・・何故あいつが?・・・私はあそこから生還したんじゃなかったのか?それとも、此処はまだ、あいつの世界なのか? ― 二人が近づいて来る。私はよろよろとベンチから立ち上がり身構えた。若い女が驚いて立ち止まる。 「な、なにぃ~、この変なおっさん。気色悪い!」 そう小さく叫んで、若い女が若者の腕にしがみついた。 「大丈夫だ、ちょっと待ってろ。」 若者は若い女にそう言うと、女の腕を優しくほどいてからゆっくりと私に視線を向けた。 「ようっ!また遭っちまたな、オッサン。」 近づいて来た若者が、ニヤリと笑いながら言った。 背筋に悪寒が走り、恐怖に全身の硬直が強まって体が震え出した。さっきまでの悪夢が蘇る。眼の前の若者から視線を逸らさずに、私はジリジリと後退りした。 「おいおい、逃げんなよ、オッサン。なんにもしねぇよ。」 若者が言う。 ― 騙されるな! ―  自分自身の内なる声が聴こえた。 「オッサン、あんたの忘れもんを持って来てやったんだぜ。いいのか?要らないのか?」 私をからかうようにそう言って、若者が笑っていた。 「忘れ物?・・・」 「ああ、あんたにとっちゃ、大事なもんなんじゃねえか?・・・受け取っておいた方がいいと思うぜ。」 私は身構えながら、じっと若者を見た。来ている服はさっきまでと同じで、手には何も持っていなかった。 ― ポケットの中か? ― そう思った時、注意を促す自分自身の内なる声がまた聴こえた。 ― 嘘だ、騙されるな! ―  その声に従い、少しでも恐怖を振り払おうと私は叫んだ。 「騙されるもんか、何も持っていないじゃないか!」 「おいおい、オッサン、俺が誰だか知ってんだろ!」 「?・・・」 「パシリでもあるまいし、物なんか手に持って歩くかよ。いったい、誰だと思ってんだ?この俺を。」 私には、若者が言っている私の忘れ物というのがいったいなんなのか、さっぱり見当が付かなかった。 「いいんだぜ、あんたが要らないって言うんなら、それでも。別に、あんたの死んだ奥さんから頼まれた訳でもないしな。」 そう言って、若者がまたニヤリと笑った。 「どうする?要るのか?要らないのか?」 警戒しながら、私は動揺し、迷い始めていた。若者の口ぶりだと、妻の小枝子に関わる事らしかったからだ。 ― 騙されるな!嘘だ。きっとまた、なにか企んでいるんだ ― そう叫ぶ自分自身の内なる声に逆らい、私は若者に返事した。 「妻に、小枝子に関わる事なのか?」 若者はそれには答えなかった。ただ、じっと私を見ている。 私の意識は、その瞳に吸い込まれた。若者の口から放たれる我雑で素養のかけらも感じられない言葉とは裏腹に、底なしの深さと、限りない静寂の色を湛えたその瞳に。 若者が、私の顔の前に右手を翳した。そして私の意識は、再びあの世界へと跳んだ。妻の小枝子に関わるらしい私の忘れ物とやらを確認するために。
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