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死者の希望
◆ 死者の希望 ◆
「あんたがそこまでしなきゃいけない価値と意味が、あんなオッサンにあるのか?」
若者が小枝子に言った。
「あなたにしてみればただのオッサンでも、私にとっては・・・とても大切な人なの。」
「フ~ン、あんな弱っちいオッサンがか?」
「ええ。」
「なんでだ?よくわかんねえが・・・愛?ってやつか?」
「愛・・・」
小さくそう呟くと、小枝子は空を見上げて、折り曲げた人差し指で涙を拭った。
「かもしれないし、じゃないかもしれない・・・」
「なんだ、それ?意味わかんねえ~。」
若者が笑った。
「そうよね・・・でも、本当よ。愛なんていう響きのとても綺麗な言葉で単純に言い表せたら、純粋で美しくていいのだろうけど・・・そんな単純には・・・人の取る行動の理由は、もっと複雑だわ。」
「複雑?」
「ええ。」
小枝子は掌を広げ、その掌の中に舞い落ちては儚く消える雪を見ていた。
「本当は誰もが、この一片一片の雪達のように無垢で純粋でいたいのに、そんな無垢な純粋さはとても儚いものだって、嫌でも人はどこかで知っちゃうのよ。無垢で純粋であり続けるには、人の人生は少し長過ぎるわ。
だから、自分の無垢で純粋な部分が儚く消えちゃってもちゃんと生きて行けるように、自分自身にちゃんと弁解と折り合いをつけられるように、きっと人には色々な気持ちがあるんだわ、複雑な気持ちが・・・特に、女にはね。」
若者は黙って小枝子を見ていた。
「誰かを愛したいという気持ちと、自分の愛したその誰かに、ずっと愛されていたい気持ち。愛した者を守ってあげたいし、愛した者にしっかり守られている確信を得たい。
誰かを好きでいたいし、自分を好きでもいたい。誰かを理解してあげたいし、自分の事を理解してももらいたい。
優しくしたいし、優しくされたい。決して忘れたくないし、忘れないでいてほしい。
そういった一つ一つの気持ちがみんな振幅していて、それぞれが揺らぎの幅を持っているから、物事がより複雑になっちゃうのね。」
「確かに、えらくややこしそうだな。」
「でしょ・・・自分以外の誰かへの想いであれ、自分への想いであれ、一つ一つはみなそれぞれ純粋なものなのにね・・・」
そこまで言うと、小枝子は少し間を置いて、深く息を吸って吐いた。そして記憶を手繰るかのように、遠くを見つめてぽつりと言った。
「あの人は、私を守り、私達の生活を守るために、それこそ一生懸命に働いていたわ。」
「あのオッサンが仕事熱心だったのは、それだけが理由じゃねえだろっ?成功して他人に見栄を張りたかったんじゃないのか?」
「他人から尊敬されるように一生懸命働いて成功しようとするのも、私と私達の生活を守るために一生懸命働くのも、どちらもその一つ一つは純粋な気持ちから湧き出た行動よ。
でも、その純粋な気持ちから湧き出た行動が重なり合えば重なり合うほど、揺らぎの幅がどんどん広がっちゃって、人は大切な物を見失うのね、きっと。
私と私達の生活を守り、それを確かなものとするために、事業を拡大してあの人がより忙しくなるほど、誰かが寂しさを覚えるようになったわ。」
「その誰かって、あんたの事か?」
「ええ・・・頭ではちゃんと理解出来てるのに・・・私、どうしてか寂しさから逃れられなかった。だから、私はあの人が事業に失敗した時、これで良かったのかも?・・・なんて思ったわ。本当にそう思ったの。
でもそれは・・・間違ってた。
私と私達の生活を守れなくなってあの人は落ち込み、人々に尊敬されるどころか、社会から落伍者と見られるようになって、よりさらにあの人は落ち込んでしまった。そして私は、大きなミスを犯した。」
「ミスを犯した?あんたが?あんたはその後、あのオッサンを励まそうと懸命だったじゃないか。いったい、それのなにがミスなんだ?」
「私の一つ目のミスは、あの人の気持ちを理解してあげられなかった事。そして二つ目のミスは、私が事故で死んじゃった事。もう少し時間が必要だったのよ、あの人には。」
「時間?」
「ええ、あの人がちゃんと自分と向き合えるようになるまでの時間。そして、自分自身に弁解と折り合いをつけて自分自身を癒すための時間。
今にして思えば、あの人が事業に失敗した最初の頃、もう少しそっと見守ってあげれば良かった。私はあの人の気持ちも理解しないで、ただ我武者羅に励まそうとしてたわ。
自分の後ろめたさもあって、今度は私があの人を守るんだって。それが、逆にあの人を苦しめてたなんて知らなかった。」
「フッ・・・」
若者が薄く笑った。
「あのオッサンをいたぶりながら、あんた、全部聴いてたんだもんな。あのオッサンの心の声ってやつを。
けど俺に言わせりゃ、そんなの、ただあのオッサンが弱っちくて情けない奴だったってだけだけどな。事業に失敗しても、「なにクソッ!」って頑張ってる奴だって大勢いるぜ。
あのオッサンにだって出来たはずだぜ。事実、さっきあのオッサン、叫んでたじゃねえか。
オッサンを生還させるためのあんたの演技の中のあの絶望的な状況で、諦めずに抵抗して叫んだんだぜ、あんたのために。
見てて笑っちまったよ。おぅおぅおぅ、オッサン、やりゃ出来んじゃん!てな。」
「ええ、嬉しかったわ、あの人があそこまで私の事を守ろうとしてくれて・・・そのおかげで、あの人を生き返らせる事が出来た。
それに、あの人が私の死をあそこまで自分のせいに思ってたなんて・・・私、知らなかった。
私の死は、ただの事故で、私がぼんやりしてたせいなのに・・・あの人には何の責任もないのに。私の死が、まだ自分と向き合えなかったあの人をあそこまで追い込んでしまったんだわ。」
小枝子の瞳から、また涙が零れ落ちた。
「そんなあの人を、こんな所になんて置いておけない。死が誰にもいつか必ず訪れるものでも、あの人の死後の世界は此処であるべきじゃない。こんな、死んでもまだ自分の記憶で自分の心を鞭打つだけの世界じゃ・・・」
「フンッ、美しいこった。それでわざわざ俺の姿になって、あのオッサンを生き返らせたって訳か。だが、あのオッサンにとってはそれで良かったのかな?生還したって、また辛く寂しい日々が待ってるだけなんだぜ。自殺する事しか考えられなかった辛い現実が。」
「だから、精一杯の芝居を打ったんじゃない。あなたには申し訳なかったけど・・・。苦しさや辛さから逃れるために自ら命を絶つ事が、さらに悲しく、ただその苦しさと辛さが増幅されるだけの死後の世界へと繋がるんだって事を、あの人に伝えたかった。
どんなに辛くても、どんなに苦しくても、与えられた限りある生という時を誠実にまっとうした者だけが、癒され、安らぐ事を許される死後の世界に入れるんだって。」
「あれで、それを全部伝えられたのか?」
「ううん。」
「だろうな・・・あのやり方じゃ、あのオッサンに伝えられたのは前の半分だけだ。」
「時間がなかったの・・・あの人の飲んだ薬の量は、致死量というには微妙な量だったけれど、あの状態にこの寒さが加わったから、私、焦ってしまって・・・」
「確かに、あのままだったら、あのオッサン、完全にアウトだっただろうな。」
「だから、一刻も早くあの人の萎えた生気を呼び起こさなきゃいけなかった・・・はじめは、あの人の恐怖を煽ったけど・・・駄目だった。
焦ったわ、私・・・でも、途中で気付いたの。もしかしたら、怒りを煽った方が効果的なんじゃないかって・・・自信はなかったけど、もし・・・もしあの人が、私の事をまだ大事に想ってくれていたら上手くいくんじゃないかって。
だから、あなたにもう一度頼みに行ったの、あの光を。」
小枝子が顔を横に振ってこちらを見た。美しかった。神々しいほどに美しかった。私はこれほどに美しい妻と一緒にいたのだ。
私は想い出した。もともと、小枝子の美しさが他の女性達よりも抜きん出ていた事を。
そして、その美しい小枝子が、生涯の伴侶としてこの私を選んでくれた時の歓びと、不安を。
あの時、私は誓った。歓びに包まれながら、同時に背負った不安を掻き消すために自分自身に誓った。彼女を、なに不自由なく幸せにするんだと・・・。
まだ小枝子と結婚する以前の、私達が付き合いはじめた、小枝子が二十代の初めの頃は勿論、その後、幾つ年齢を重ねても、小枝子を眼にする者達は皆、彼女の美しさを賞賛した。
ほとんどの女性が、年齢を積み重ねるごとに失って行く美しさの輝きを、彼女だけはそれとは無縁なように、美しさを保ち続けるどころか、その美しさを昇華させていた。
若さ特有の弾けるような輝きは、歳を重ねるごとに大人の女性が放つしっとりとした艶やかな輝きとなり、もともと彼女が備えていた優しさと柔らかな気品をそのままに纏っていた。
小枝子自身は鏡に向かった時に時々独り言のように嘆いてはいたが、彼女を取り囲む様々な年代の女友達達にすれば、四十歳を超えても尚その美しさを昇華させ続ける小枝子は、羨望と嫉妬の対象だったと思う。
それほどの美しさを魅せる小枝子がいつもすぐ傍にいたというのに、私は、自分が自分自身に課した誓いを守っているのだという事を口実に、小枝子を見つめる事を、小枝子に向かって微笑む事を、小枝子に語りかける事を、忘れたかのように仕事ばかりしていた。
私はずっと不安だったし、そして怖かった。小枝子を失う事を怖れてばかりいた。
皮肉にも、小枝子の美しさが私に不安を生じさせ、それを煽っていた。
これといってなんの取り得も、他人に勝るものも持っていないただ凡庸な男でしかなく見た目も不細工な私にとって、他人が羨むほどの美しさを魅せる小枝子と共に暮らせるという幸福を手にした歓びは、同時にそれを失う事の不安の始まりだった。
けっして、自分がまた独りになるのを恐れていた訳ではない。私はただ単純に、小枝子を失う事を・・・小枝子に愛想を付かされ、彼女の視線と微笑が自分に向けられなくなる事を怖れたのだ。
小枝子が、まったく自信などなく恐る恐るだった私の求婚を笑顔で承諾してくれたのは、彼女の周囲の者達もそうだったであろうが、私自身にとっても信じられない驚きだった。
舞い上がり、雄叫び、踊り出したくなるほどに嬉しかった。
だが、その歓喜のすぐ後に、自己否定な冷静さが姿を現した。
歓喜はあっと言う間に萎んだ。よくよく考えてみれば、自分が小枝子に相応しい男だなどとは思えなかったし、誰もが、きっと自分と同じようにそう感じているだろうと思ったからだ。
だから私は、少しでも小枝子に相応しい男であり、夫になろうと・・・いや、小枝子が私と結婚した事でその美しさを損ねる事になったり、周囲の人々に貧乏くじ、外れくじを引いたなどと中傷されぬよう、せめて経済的な不自由さだけは感じさせまいと今まで以上に仕事に没頭した。
見てくれも、持ち合わせている才能も、社会的な地位も、すべてが凡庸な者が、他人も羨むほどの秀でた美しさを持つ女性をずっと繋ぎ止めて置く術を、私はそれしか思いつかなかったし、そうする事しか出来なかった。
ずっと、ずっといつまでも小枝子と一緒にいたかったし、そのためなら、たとえ小枝子と共有する時間の大部分が失われても良かった。私はそう思っていた。
本当に私は愚かだった。
己への自信の無さゆえ、自虐的で一人勝手な怖れに囚われ、私は忘れていた。私達に与えられている時には限りがあるのだという事を。
何故、もっと早く自分の愚かさに気付かなかったのだろう・・・どんなに互いに見つめ合い、微笑み合いたくても、どんなに互いに言葉を交し合いたくても、どんなに互いに触れ合いたくても、もうそれは叶わないのだ。
小枝子に感じるこれほどの愛しさに、小枝子の美しさに、そして、その美しい小枝子が死しても尚これほどまでに私の事を気遣い、救おうとしてくれていた事に、私は自分の愚かさを思い知らされた。
「なんて・・・なんて、私は愚かだったんだ・・・」
それ以上は、言葉にならなかった。
私は自分が失ったものの価値と、その大きさを改めて理解し、小枝子を見つめながら自分を罵り続けた。小枝子への愛おしさと、いくら悔いても悔やみ切れぬ後悔で溢れ出る涙を止める事が出来なかった。
「オッサン、自分の愚かさをそうやって罵るのは、後にした方がいいんじゃねえか。」
若者の声が私に忠告した。
「此処に居られるのも、もう、そんな長い時間じゃないんだぜ。」
若者のその声に呼応したかのように、小枝子が呟いた。
「あの人に、もう一度逢えて、嬉しかった・・・」
小枝子が涙を拭う。
「どんな形であれ、あの人を生還させられたし・・・もう、何も思い残す事はない・・・」
「それは、どうかな?」
若者が訝しげな顔をした。
「あのオッサン、また、自殺するかもな。」
小枝子が、少し間を置いて言う。
「しないわよ。」
「何故だ?何故、そう断言出来る?」
「だって、またあんな酷い目に遭いたいなんて、そんなの誰も思わないでしょ。」
「それは、そうだな。」
若者が笑いながら言った。
「でしょ。いいの、それだけで。生きてさえいてくれれば。」
「あのオッサンが生き続ける事が、あんたにとってそんなに大事なのか?」
「ええ。」
「何故だ?あのオッサンが自分の定められた生をまっとうするためか?此処よりもましな死後の世界にいけるように。」
「それもあるけど・・・」
小枝子が、寂しげな微かな笑みを浮かべた。
「私のため・・・」
「あんたのため?」
「そう・・・私のため。」
まるで自分自身に確認でもしているかのように、小枝子が眼を伏せて頷いた。
「どういう事だ?」
「言ったじゃない、人の取る行動の理由は複雑だって。」
「ああ、そうだったな。」
「あの人を、今でもずっと大事に想っているから、あの人がこんな所で永遠に苦しむなんて耐えられない。それは本当よ。
でも、その気持ちと同時に、私にはもう一つの願いがあるの・・・ずっと、あの人の定められた死の時まで、ずっと私の事を想っててほしい。私の事を、ずっと忘れないでいてほしいの。」
「どうしてだ?」
「もう、孤独は嫌だから・・・」
「孤独?」
「ええ、独りぼっちは、もう嫌だわ。」
小枝子はそう言うと、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。
「いいかしら、座ってても。なんだか、急に疲れちゃったわ。あの人をなんとか向こうに還せて、ホッとしちゃったせいかしら?」
上目遣いで小枝子が若者に訊く。
「ああ、どうぞ。」
若者は短く返事した。
「私、ずっと独りぼっちな気がしてた・・・あの人が事業を拡大して忙しくなるにつれてその孤独感はどんどん大きくなっていった。あの人にとって良い妻であろうと頑張り過ぎたのかも・・・。
あの人があんなに仕事に一生懸命だった一番の理由が、私のためなんだって、私にはわかってたから・・・仕事熱心な男の人の動機が皆そうだとは思わないけど、あの人はそうだった。
自分の両親を亡くしてみて、よくわかったの。いつも無条件に自分の事を愛し、気にかけてくれて、心の拠り所となってくれる家族と呼べる者がいなくなる事の寂しさと、不安が。
早くに両親とも亡くし、一人っ子で兄弟もいなかったあの人にとって、家族と呼べるのは私だけだった。
私もあの人と同じく一人っ子だったし、私達は子供に恵まれなかったから、あの人にとっては私だけが、私にとってはあの人だけが家族だった。
根が真面目で正直な上に不器用なあの人は、そうする事が当たり前のように、私と私達の生活を守るために頑張っていたわ。もしかしたら・・・ううん、きっとあの人も、孤独が怖かったのね。それに、贅沢をさせないと、私を失うとでも思ってたのかしら。
誰かお友達にそう言われたのか、あの人が自分で勝手にそう思ってたのかはわからないけれど、あの人、仕事で使う以外のお金は、全部私によこしてたの。使い方は私に任せるからって。
あの人、私から言わない限りは遊びにも出ず、何が欲しいとも、何が買いたいとも私に言った事がなかったわ。」
そこまで言うと、何かを想い出したのか、小枝子が可笑しそうに笑った。
「今の時代には、まるで絶滅危惧種のような男ね・・・いつだったかしら、私、友達にそう言われた事があるわ。あなたの旦那様は、貴重な種だから大事にしなさいねって。
私もそう思った。お金があるのに遊びもせず、浮気もせず、妻一筋なんて、今の時代には探そうと思ったってなかなか見つかるもんじゃないって。
だから私、あの人がそれで喜ぶんだったら、満足するんだったらって、敢えて少しだけ贅沢な生活をしたわ。
あの人のためにずっと綺麗でいれるように、週に一度はエステと美容室に通い、常に着飾って、ジムとプールなんて毎日のように通った。
知り合いや友達が増え、その方達と会食したり、家へ招く事が多くなって、その方達に色々な集まりに連れ出された。あの人の会社はそんな大きくもない会社なのに、傍目には社長婦人の優雅な生活に見えたのね。
次第に、良くも悪くも、それこそ色々な種類の人達が、私とあの人の周りに集まっちゃった。」
小枝子をじっと見つめ続ける私の脳裏に、その頃の様子が浮かんだ。
「馬鹿だったわ、私・・・その人達の誰かのお節介な言葉に乗せられたのか、あの人、益々仕事に頑張り出しちゃった・・・事業を拡大し、休日もなく働きだしたの。
あの人が喜ぶんだったらと思ってした事なのに、私、自分で自分の首を絞めちゃった。あの人の時間も、意識も、みんな仕事に取られちゃった。
思ったわ、私・・・こんなはずじゃなかったのにって。私にとって大事なのは、あの人と一緒にいる時間であり、二人だけの生活なのにって。
何をしていても寂しさが膨らんだ。友達と会ってその寂しさが一時は間切れる事はあっても、消える事はなかった。
正直に、あの人に甘えながら言えば良かったのかもしれない・・・寂しいって。
でも私、言えなかった。なんでかな?・・・自分で勝手に気を遣ってるつもりになって、色々考え過ぎちゃってたのね・・・。
そうして悶々としているうちに、私、体に変調を覚えた。眠れなくなったの。私はあの人に隠れて睡眠薬を飲みだした。そうしなければ眠れなかった。そしてあの人の事業の失敗・・・私、自分のせいだと思った。その一方で、さっき言ったように、これで良かったとも思った。
でも・・・違った。その私の考えは、あの人の気持ちを理解していない、自分にとって都合の良い考えでしかなかった。
あの時、我武者羅なほどにあの人を励まそうと私が頑張ったのは、あの人を救いたかったのは勿論だけど、私自身がその二つの罪の意識から逃れるためだったんだと思う・・・。
寂しさと、その罪の意識に、あの人に隠れて私はますます薬への依存を強めたの。自分で墓穴を掘って、結局、寂しくて孤独なままそこに入っちゃった。ほんと馬鹿ね、私。」
両手で顔を覆い、項垂れ、肩を震わせながら小さく嗚咽を漏らして小枝子が泣いた。小枝子の寂しさが、小枝子の孤独感が、光を通り越して私に届いた。
掻き毟りたいほどに胸が苦しかった。小枝子の傍に行きたかった。嗚咽を漏らしながら項垂れて泣く小枝子を抱きしめたかった。
「小枝子~!」
自分の手で頭を鷲掴み、髪の毛を掻き毟りながら私は叫んだ。もどかしくて、切なくて、自分が情けなくて私は泣き叫んだ。
私は立っている事が出来ずに膝から崩れ落ち、頭を抱えながら、額を雪に覆われた地面に擦りつけて泣き続けた。
「ごめんなさいね・・・」
「いや、いいさ。」
二人のその声に、私は顔を上げた。若者に向けて顔を上げた小枝子が、何度も何度も涙を両手で拭いながら無理矢理笑顔を浮かべようとしていた。
「今さら泣いたって遅いのにね・・・こうなる前に、あの人の前で素直に泣けばよかった。」
若者は無言のまま小枝子を見ていた。
「定められた生の時をまっとうした死者の行く死後の世界は、その死者を想う生者の想いによって形作られる。」
呟くように、小枝子が小声で言った。
「あなたがそう教えてくれた。その世界を形作った生者の死者に向けた心の声のみが、光の糸となって死者へと届く・・・とも。」
「ああ。」
「だから私、あの人に生きてて欲しい。死者の世界は、その光の糸が無ければ寂し過ぎるもの・・・あの人が私のように死んじゃったら、その光の糸が切れて無くなっちゃう・・・。
死は、たとえ生をまっとうしての死であれ、その光の糸なしでは孤独を癒してはくれないわ。
死の世界の無とは、孤独そのものよ。限りない孤独・・・その孤独な無の中で、自分が想い描くとおりに自由に幻を見る事は出来るけど・・・でもやはりそれは、ただの幻でしかないの。
孤独の中で見る幻なんかいらない。一人ぼっちは、もう嫌なの。死後も孤独なんて、そんなのあまりに哀し過ぎるわ。
身勝手だと思うけど、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、生きてて欲しいの・・・あの人に。
生きて、ずっとずっと私に、あの人の光の糸を届け続けて欲しいの。あの人から届く光の糸だけが、私の唯一の救いであり、癒しそのものなんだもの。」
「それで、あんたのためって訳か。」
「ええ・・・怖いでしょ、女って。死んでも、こんなに身勝手なんだもの。」
「まったくだ。」
若者が笑うと、小枝子も泣き顔のまま笑った。
「ちゃんと生き続けると思うか、あのオッサン?」
「大丈夫、十分、脅したもの・・・それにあの人には、才能と勤勉さの両方があるもの・・・今はただ、自信を失ってるだけだもの・・・」
泣き顔のまま、小枝子がぺろりと舌を出した。それを見た若者が、呆れたように頭を振る。
「なあ、一つだけ・・・いや、二つ、訊きたい事がある。」
「なあに?」
「女ってのは、皆、あんたみたいなのか?」
小枝子が、キョトンとした顔をする。
「どうかしら?・・・そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。」
「答えになってねえな、それじゃ。」
小枝子が無言のまま、顔に笑いを浮かべていた。
「自分で確かめろって事か・・・」
若者が独り言のように呟く。
「最後に一つ、あんた、あのオッサンのどこに惚れたんだ?あんただったら、もっとマシなのが選べただろうに。あんたにゃ悪いが、あのオッサン、見てくれも、生き様も、無様でイマイチだぜ。」
少し考える仕草を見せてから、小枝子が言った。
「根が真面目で正直なのと・・・そうね、あの人が眼に秘めていた寂しさかな?・・・
さっきは仕方なく腐った魚の眼だなんて言っちゃったけど、あの人、本当はとても綺麗な眼をしてるの。魅入っちゃうような綺麗な眼。
でも、その眼の奥に、寂しさがチョコンって居るの。女だったら、胸がキュン!てしちゃう寂しさが。」
「フンッ、アホくさ。この俺が惚気られるなんて・・・訊くんじゃなかったぜ。」
若者が顔を顰めた。小枝子が可笑しそうに笑う。
「ねえ、私も一つ、あなたに訊きたい事があるわ。」
「ああ、なんだ?」
若者は、まだ苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「この死後の世界の管理者で裁定者のあなたは、すべてを見通してたはず。すべてをわかってるはずのあなたが、何故わざわざそれを訊ねて、私に語らせるの?」
「さあ、何故かな?」
若者は、ニヤリと笑ってとぼけた。とぼけた顔をしたまま、こちらの方をチラリと見る。若者と眼が合った。
私はすべてを理解した。小枝子の願いを、そして、この若者の意図を。
小枝子は腑に落ちない顔をしていたが、それ以上は若者に訊ねなかった。
私はゆっくりと立ち上がり、涙を拭い、鼻を啜った。
体の中に、微かな生きる力の復活を感じ取っていた。生き続ける意味を再び見出し、その時が来るまで生き続けなければならないという覚悟が湧き出し始めていた。
「そろそろ時間だぜ、オッサン。」
光の中で、声が響いた。
まだこのまま光の中に留まり、いつまでもずっと小枝子を見続けていたかったが・・・私は頷いた。
意識がぼんやりと薄れてくる。薄れ行く意識の中、私はずっと小枝子を見つめ続けていた。
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