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エピローグ
◆ エピローグ ◆
意識が戻ると、私はベンチに腰かけていた。眼の前に若者が立っていた。私を見下ろしている若者が、私に向かってニヤリと笑う。
「オッサン、気分はどうだ?」
笑いながら若者が訊いた。
私は両手で顔を拭い、何度か眼を瞬いた。雪で、顔がびしょ濡れだった。
― どの位の時間、ベンチに腰かけていたのだろう? ―
若者を見上げながら、私は考えていた。
「もう、家へ帰んな、オッサン。風邪ひくぜ。」
若者はまだ笑っていた。
あれほど感じていた若者への恐怖も、怒りも、警戒も、すべて消えていた。一瞬、若者の顔に小枝子の顔がだぶった。
「おいおい、大丈夫かよ、オッサン。シャンとしな。」
薬の影響なのだろう、まだ体の芯にダルさが残っていたが、それはさっきまでとは比べようもないほどに軽いものだった。
私はゆっくりとベンチから立ち上がった。着ていたアノラックの表面を、雪が滑り落ちた。
「大丈夫みてぇだな。」
私は少し戸惑っていた。若者に何か言葉をかけたかったが、何を言ったら良いのかわからなかった。
「なんだ?俺に、礼でも言いたいのか、オッサン。」
からかうように若者が言った。見透かされた私は、相も変わらずギクリとした。
「毎回毎回、そう驚くなよ、オッサン。俺が誰だか、よ~く知ってんだろ。」
私は理解した。紛れもなく、若者はすべて見透かしているのだ。彼は死後の世界の管理者であり、裁定者であり、私などの理解を超えたところに住む若者だった。
突然、私は少し不安になった。
「此処は・・・」
「心配すんな、オッサン。此処は、あんたら生者の世界さ。」
若者がまた笑う。
私はホッとして、安堵の溜息をついた。光の糸を小枝子に届けるために、私は生者の世界にいなければならなかった。
「でも・・・何故、君が此処に・・・」
私は若者に訊ねた。死者の世界と、生者の世界は、隔てられているのだとばかり思っていた。
「ん?・・・ああ、ちょっとな。」
若者が、笑いながら言葉を濁す。ふと、私は思い出した。ついさっき若者が呟いた独り言を。
「余計な事を思い出すんじゃねえぞ、オッサン!」
眉間に縦皺を刻み、バツの悪そうな顔しながら、少し強い口調で若者がそう言った。
だが、私はもう、僅かな恐怖も感じなかった。いや、感じるはずがなかった。この若者のおかげで、私は再び小枝子に逢えたのだ。死者となり、二度と逢えなかったはずの小枝子に。
死者となった小枝子の想いと願いを確認し、私が微かでも生きる力を取り戻せたのは、この若者のおかげだった。その若者に、恐怖など感じるはずがなかった。
急に、涙が溢れる。
その涙が、この若者への感謝の涙なのか、それとも、もう二度と逢う事の叶わぬ小枝子を想っての涙なのか、自分でもわからなかった。
「オイオイ、よせよ、オッサン。マジで気色悪いぜ。男が男を見て泣くんじゃねぇよ。そのマフラーをしっかり首に巻いて、とっとと帰んな!風邪でもひいて死んじまったら、元も子もねえんじゃねぇの?」
ずっと、不躾で、我雑なだけで、嫌悪にしか感じなかった若者の言葉が、今は心許した友の忠告のように胸に染みる。奇妙な気分だった。
「ありがとう・・・本当に・・・ありがとう。」
極自然に、感謝の言葉が口から出た。
「あんたの愛しい誰かさんじゃないが・・・」
若者が悪戯っぽい眼を見せて笑う。
「言葉遣いが良くなったじゃねえか、オッサン。」
涙が零れながらも、可笑しさが込み上げる。私は笑った。心の底から笑った。こんなに心の底から笑ったのは随分久し振りだった。私は、ずっと笑う事を忘れていた。
笑いを取り戻したせいだろうか?若者に訊ねたかった事を思い出した。
「その・・・一つ、君に訊いてもいいだろうか?」
「なんだ?」
「その、つまり・・・どうして君が私を・・・いや、小枝子と私を助けてくれたのだろうかと・・・」
口篭りながら、私はどうしても疑問だった事を若者に訊ねた。
「エンマ~!寒いよ~!もう、早く行こうよ~!」
待たされて痺れを切らしたのだろう。若い女が、若者に向かって甘えた声を上げた。
若者が若い女の方に振り向いてニッコリと笑う。若者に抗議するように、若い女が口を尖らせた。
「別に、あんたら二人を助けようと思った訳じゃない。自分が楽しむためさ。自分が楽しむために、死者となったあんたの奥さんに手を貸した。彼女にも、ある事を隠してな。」
私に振り返り、若者がニヤリと笑う。
「俺にしてみれば、瞬きにも満たないほんのちょっとの間だけだったが、楽しませてもらったぜ。おかげで、ちょっと興味が湧いた・・・生者の世界の女にな。
ちょうど、死者ばかり相手にしてるのも飽きが来てたとこだったし、死者とその世界よりも、生者の世界と女の方が複雑で楽しそうだ。生者には死者と違って、若さという限りも、寿命という限りもあるしな。
暫くの間、俺もその限りある時と、複雑さを、それになによりも、女というものを楽しんで観察する事にした。そういう訳だ、じゃあな、オッサン。」
私にそう言うと、若者はわざとらしく口を尖らせて怒った振りをしている若い女の方へ歩き出した。
「待たせたな。」
若者が、若い女の頬を撫でる。
「もぅ~!」
上目遣いにそう言って頬を膨らますと、若い女は若者の腰に腕を回して体を預けた。
歩き出しながら、若者の右手がミニスカートの上から若い女の尻を撫でている。若い女は抵抗する素振りも見せず、若者に寄り添ったままだった。
いちゃつきながら去って行く二人を、私はずっと見ていた。二人が微笑ましかったし、羨ましかった。
以前の私なら、― なんてふしだらな若者達だ! ― などとでも言って罵っていた事だろう。
手を繋ぐぐらいならまだしも、男が、寄り添う女の尻を撫でながら歩き、女が、抵抗もせず甘え顔でそれを受け入れているなんて事を、許容し微笑める自分ではなかった。
だが今は、二人が素直に微笑ましく思えたし、羨ましく思えた。
小枝子の顔と姿が脳裏に浮かんだ。
― あんな風に素直に、二人で一緒にいれた時を楽しめば良かったんだ・・・誰にもいつかは必ずその時が来て、嫌でも、愛しい者と離れ離れにならなければならない時が来るのだから・・・ ―
私は思った。そして、
― 私達に与えられた時には限りがあるという事をわかっていながら、出逢えた愛しい者を微笑みながら見つめる事を、語らい楽しむ事を、悪戯にでも触れ合う事を、恥ずかしさにかこつけて躊躇い、不安に煽られながら仕事ばかりしている人生になんの意味があるのか?・・・いや、あったのか? ―
とも思った。
死に急ぐ事はない・・・いつかは必ずその時が来るし、生者とであれ、死者とであれ、人は皆、想いを誰かと繋げているのだ。
その繋げた想いを見失わずに紡ぎ続ける事、生きる意味は、それだけで十分だ。
人は迷い、不安を覚え、もがきながら生き続ける内に自分を見失う。
歓びは苦痛へと、楽しさは憂鬱へと、素直な想いは邪な欲望へと、願いは諦めへと変わり、孤独というベールに覆われて、世界は閉じられたと思い込む。
だがその思い込みは、人の持つ弱さと無知が見せる幻であり、まやかしだ。
たとえ一時自分を見失っても、繋げたその想いを見失わなければ、再び自分を見つけられるのだ。
「エンマ・・・そうか・・・彼の名は、エンマというのか。」
そう呟いてから笑いが漏れた。
「私は、生きる意味を、死者となった小枝子に、生の見せる世界の複雑さとその価値を、死後の世界を管理する者に教わったのか・・・
死に深く結びついた者の方が、生きている事の歓びや楽しさを、そしてその価値を、生者よりも理解しているなんて・・・」
独り言を呟きながら、私は雪雲に覆われた空を仰いだ。
いつのまにか本降りとなった湿った雪が、純白の羽毛のような花弁となって静寂の中をフワフワと無数に落ちてくる。
その一片一片のすべてが、美しくて儚い、無垢で純粋な花弁だった。見える限りの宙を覆い尽くしている無垢な白さに、その美しさに、私は圧倒された。
自分までもが、再び無垢で純粋になれたような気がした。
― 生きよう、小枝子のために・・・小枝子に私の想いを届け続けながら、残りの限りある時をその時まで・・・
きっと、生者の世界は、誰かと出逢うためにあるんだ。愛しい者と出逢い、想いを繋げるために・・・
共に生者の世界にあっては勿論、たとえ離れ離れとなってしまっても、届き、繋がっているその想いを紡ぎ続けて行くために・・・ ―
空から視線を外し、私は二人が立ち去った方を見た。地面に降り積もった雪の上に、絡みながら真っ直ぐに続いている二人の足跡が消えようとしていた。
ヨロヨロとふらつきながらも、私は二人の足跡を追うように歩き出した。まるで、その足跡を見失うまいとでもしているかのように。
「ついて来な、オッサン。」
若者がそう言って私に手を差し伸べ励ましてくれてでもいるかのように、雪の上の足跡はどこまでも続いていた。
おわり
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