前編

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前編

  今は昔……   奥州の山の深きに、ひとりの鬼が住みついていた。   日に()がれた(つや)やかな伽羅色(きゃらいろ)の肌、   冷ややかな炎を沈める漆黒の瞳。   闇夜に()かれた ぬばたまの髪に   不吉な異形の(しるし)を隠して。   研ぎぬかれた鋭利な刃を思わせる   スラリとした長身には、   人を惑わすアヤカシの媚香(びこう)がおのずと匂いたち。   そうして、見目麗しき若い男女をかどわかしては、   (なぶ)り、アヤめて、屍肉(しにく)(むさぼ)るという…… 「……おいおい、バカにしてくれるなよ。ニンゲンどもの肉なんざ、水っぽくて食えるもんかよ! イタチの干物でも食ったほうが、よほどマシだ」 鬼は、そうアザケり、腹を抱えてケタケタと笑った。 紅葉の色と同じに染まりゆく夕暮れの木漏れ日は、やけに静かで……鬼の哄笑(こうしょう)ばかりをけたたましくコダマさせたので、鬼にかどわかされてカエデの根元に放り置かれた哀れな若君は、あどけなき背中をなおいっそう震わせた。 「ならば、キサマに連れ去られた城下の人々は、今どこにいる? なぜ、この山から帰ってこぬのだ?」 と、人を寄せ付けぬ天険(てんけん)(いただき)()く泉のごとく気高く清冽な声で、サムライが尋ねた。 (ろう)たけた雪花石膏の肌と、落日の陽光を背中から浴びて黄金色に燃え上がる亜麻色(あまいろ)の髪…… 浮き世ばなれした美貌は、まぶしく、危うく……鬼の目から見てさえ、どこか魔性めいた蠱惑(こわく)をただよわせているようだった。 鬼は、このサムライを籠絡(ろうらく)したいと考えた。 もう、かれこれ百余年も淫蕩(いんとう)放埓(ほうらつ)をくりかえし、この世の享楽に飽いてきていた鬼にとって、それは、久しぶりに心の底からあふれだす欲求で。 それを自覚したとたん、体の芯がヒリヒリするほどの飢えと渇望を覚えていた。 鬼は、ひきしまった唇の端を吊り上げ、ニヤリと薄笑いしながら、問い返した。 「風変わりな目の色だな。……さては、南蛮の血が混ざっているのか?」 「…………!」 サムライは、切れの長い琥珀(こはく)の目をスゥッと細めた。 もとより静謐(せいひつ)な瞳から、いっさいの表情がシメ出されると、そこには、混じり気なしの純粋な怒りと自尊心だけがあらわになった。 ―――人外の鬼ごときにまで嘲弄(ちょうろう)されるとは……! この比類なき容貌のおかげで、物ごころついた頃から、得体の知れない親なし子と(ののし)られ、(さげす)まれてきたのだ。 なまぐさ坊主に拾われれば、たちまち色子として幼い(つぼみ)をむしりとられ。果ては、小坊主や寺男どもにまで(なぐさ)み者にされる日々を過ごした。 そんなある日、さる大名家の法要をおおせつかった住職に付き従った彼の際立った美貌と所作に、この家の当主その人が目を付けた。 奥州二十二万石の大大名たる、かの当主は、豪放磊落(ごうほうらいらく)かつ明朗な人柄で、将軍家からの信頼も厚かったという。 秀でた人材を見つければ、氏素性(うじすじょう)を問わず重臣として登用するのが常だった。 こうして、たちまち、出自の怪しい寺小姓が、由緒正しき大名家に仕えるサムライになったのだ。 「……少しだけお待ちを。すぐに、この鬼を成敗してご覧にいれますから」 サムライは、己が仕える主君の一粒種(ひとつぶだね)たる若君をかえりみて、ふわりと柔らかく口元を和ませてみせた。 若君は、なめらかな頬をほんのりと朱に染めて、コクリとうなずく。 美貌のサムライの非の打ち所のない微笑みは、どんな励ましの言葉よりも、若君の無垢な心を優しく包み込み、禍々(まがまが)しき悪鬼への恐怖すら、たやすく吹き飛ばした。 サムライは、片手でスッと腰の大刀を抜き、剣先をゆらりと地面に向けた。 優雅な物腰と容貌だけでなく、生まれついての鋭敏な気働きをなによりも認められて主君には目をかけられたものの、「色子あがり」と陰で揶揄(やゆ)する家臣も多く。 サムライは、寝る間を惜しんで読み書きを覚え、死に物狂いで武道を鍛錬(たんれん)した。 もとより生来の素質があったものであろうか、数年のうちに、指南していた流派の免許皆伝の認許を受け、当家の剣術指南役(けんじゅつしなんやく)にまで成り上がっていた。 あまりに気軽で(りき)みのない、その構えを前にして、鬼は、ひどく楽しげに笑って、 「意外とデキるようだなぁ。面白い……」 と、こちらも子供じみた(たわむ)れをおこなうような安易な仕種で、さも威勢よく太刀を抜刀するや、大仰に剣先を振り上げる。 サムライは、挑発するようにフッと鼻を鳴らした。 「妖術でもなんでも操ればよかろうに。鬼に剣が使えるのか? なにも、私に合わせてくれなくても良いのだぞ。よもや、人間相手に手加減を加えてやろうとでも考えているのなら、無用な気づかいどころか、……キサマの命取りになる」 「ほーぉ? たいしたウヌボレだなぁー」 鬼は、異様に発達した鋭利な糸切り歯の鮮明な白さを見せつけでもするように、ニッと歯をムキ出した。 「さては、そのワザモノ……ウワサに名高い、アヤカシ斬りの『妖刀ムラマサ』ってヤツかい?」 「…………」 「妖刀だろうが何だろうが、オレのカラダにかすりでもしない限り、斬れやしないぜ?」 「キサマのウヌボレこそ、たいしたものだ」 サムライは、そうニコヤカに軽口を返した。 「殺すには惜しいねぇ、アンタ」 鬼は、再びケタケタと大笑いした。 「さっき、オレに聞いたろ?」 「…………?」 「オレに(さら)われたニンゲンどもが、どうなったか、……って」 「ああ。食い殺したのでなければ、いったい、どこに消えたというのだ?」 「どこにも消えちゃいない。オレの館に住み着いているよ」 「なんだと……!?」 「オレに一度でも可愛がられて極楽を味わった連中は、たちまちオレのトリコになるのさ。……まあ、しかし、"両手に花"と喜んでいられるうちは良かったが、今じゃあ、誰がオレの夜伽(よとぎ)の相手をつとめるかって、毎晩、殺し合いでもしかねないほどの大騒ぎをしやがるもんだから。色気もヘッタクレもあったもんじゃない」 鬼は、精悍(せいかん)な柳眉をしかめて、わざとらしく深いタメ息をついた。 「さすがに、オレもウンザリしてたところだ。……こうなりゃ、"ホントの極楽"にヒトマトメに送ってやろうかと思ってたんだが」 「小癪(こしゃく)なザレゴトを……。キサマこそ、私が、今すぐ地獄に送ってやる!」 と、サムライは、大刀の尖端を外側に広げつつ、腰の後方に静かに引き下げながら、踏みしめた落葉をひとつも揺らすことなく(はかま)のスソをヒラリとひるがえして、鬼の正面に(おど)りかかった。
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