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戸田は僕と同い年のようだ。でも、大学に通っているわけではなく、近所のフォトスタジオで働いていて、プロのカメラマンでもあるオーナーの元で修業中なのだそうだ。
修業中。
僕には想像がつかない世界だ。変わった人だとは思っていたが、それはひょっとしていわゆる「芸術家肌」というものなのだろうか。そう思うと、急に戸田がしっかりした大人の男に見えてきた。
「じゃあ、戸田もカメラマンなの?」
「言ったろ?修業中さ。ただの助手だよ。撮影しているよりもカウンターで受け付けしている時間の方がよっぽど長い。仕事で証明写真や結婚式用の写真なんかはよく撮るけど、風景写真は趣味の域を出ない」
戸田は現状に全く満足していないようだけれど、それでも僕からすればすごく立派だ。僕には将来の目標どころか、来週の予定さえないのだから。
「このアパートって、会社員が多いのかな。ほら、あまり物音がしないから、みんな働いてるのかなって」
「会社員ばかりという訳じゃないし、この時間なら他に何人かいるけど、学生は清だけじゃないかな」
「そうなんだ」
正直に言うと、少しがっかりした。同年代の戸田がいるのはありがたいけれど、初日から変人っぷりがにじみ出ているし、打ち解けると更に溢れ出てきそうだから、やっぱり同世代の大学生がいるとありがたい。
「大学生がいなくてご不満のようだな」
戸田が小さく笑った。
「い。いや。そういうことじゃなくて」
僕は慌てて首を横に振った。
「隠さなくていいさ。同じ大学生がいた方が何かと心強いとは思うのは当たり前だ」
「う、うん・・・・・・」
「代わりと言っちゃなんだが、重要人物を紹介しよう。歳は少し離れているが、なに、精神年齢にフォーカスしたらさほど差はないし、むしろ俺たちの方が歳上だ」
この戸田がこう言うのだから、もっと変な人なのかもしれない。素直に喜ぶのは難しいが、初日から知人が増えるのはありがたいことに違いないから、僕は感謝の気持ちを無理やり引き寄せて抱きしめた。
「じゃあ行こう。たぶん、今なら部屋にいるはずだ」
戸田が立ち上がった。
「え?今から?」
「善は急げと、そうおっしゃっておられる」
誰が?
「い、いきなりで迷惑にならないかな」
僕は、既に玄関に向かっている戸田に声をかけた。まだ心の準備ができていない。
「引っ越しの挨拶なんていきなり行くものさ。わざわざ宣言して行く奴なんていない」
確かにそうだ。僕は慌てて戸田の後ろにひっついて部屋の外に出た。いきなりのことに緊張で心臓が高鳴っているのが分かる。知り合いがほしいのに、部屋に引き返したい。
戸田は僕の部屋を出ると、すぐ左の部屋のドアの前に立った。
「いきなり横から?順番にした方がよくない?」
「順番?」
「ほ、ほら。一階の右端から、とか」
「何を訳の分からないことを。それに、ここの住人こそが俺たちの重要人物その人だ」
「お、俺たち?」
「そう、俺たち」
まさか、両隣とも変な人なのだろうか。
戸田はドアの前で「おじゃまします」と言うと、そのままドアを開けて中に入って行った。声をかけた意味があるのだろうか。
「小山さん、いる?」
大きな声を上げると、奥から太った男性が顔を出した。まだ三月だというのにタンクトップに短パン。イガグリ頭がよく似合う素朴な感じの人だ。
「うん、いるよー。いらっしゃーい」
なんだかすごく間延びする話し方だ。
戸田が僕の肩に腕を回した。
「彼は今日越してきた後藤田清なる男だ。俺たちの新しい相方」
相方?
その言葉に、僕の脳裏を仙田の言葉が駆け巡った。
東京、取ったれや。
まさか、トリオ?
僕は慌てて頭を振って、浮かんだ言葉を吹き飛ばした。関西出身だというと、出来る出来ない関係なくお笑い要素を求められることがあると聞く。笑いの要素を全く持ち合わせていない僕にとっての心配事項なのだ。
だが、戸田はそんな僕の不安などどこ吹く風と言わんばかりの涼しい表情を浮かべている。
「今片付けるねえ」
小山さんが部屋に戻っていくと、戸田も「ああ」と言いながらそのまま部屋に上がっていった。僕はてっきり片付けるのを待つものと思っていたから、慌ててその後を追った。
間取りは同じだけど、何もない僕の部屋とは違い、小山さんの部屋は物で溢れかえっていた。しかも、境界線でも引かれたかのように綺麗に半分だけが服や本などで溢れかえっていて、もう半分は片付けられており、心なしか床もピカピカに磨かれている。そして、そこに大きな楽器がひとつだけ置かれていた。
「チェロ、ですか?」
挨拶もそこそこに、僕は小山さんに聞いた。
「うん、よく知ってるねえ」
「ええ、名前だけは。実物を見たのは初めてですが」
楽器の名前自体はよく聞くし、ヨーヨー・マなどの著名な演奏家の名前も聞いたことがある。
同じ楽器でも、僕の持っているエレキ・ギターとはずいぶんと違う。大きなボディに浮かび上がった綺麗な木目が、この楽器が高級なものであることを物語っているように思えた。この楽器のまわりだけでも綺麗に掃除してあるところを見ると、きっととても大切な楽器なのだろう。
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