一年目 ~移民の歌~

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 「小山さんはプロチェリストなんだ」  僕が驚いて小山さんの方を見ると、戸田が「見た目からは全く想像できないけどな」と、なんだか失礼なことを付け加えた。でも、驚いて思わず見てしまった僕も、同じことを言ったようなものだ。恐る恐る小山さんの方を見ると、彼は「あはは」と笑った。笑うと目が細くなり、えくぼが浮かび上がる。戸田の“素敵な笑顔”とはまた違う、“愛すべき笑顔”だった。  「よく、抽象的な風景がとか描いてそうって言われるんだけどねえ」  のんびりと言った。確かに、そんな気もする。  小山さんはしゃがんで両手を広げると、ブルドーザーのような動きで床に散らかっていたものを壁の方に寄せ始めた。僕にはとても出来そうにない器用な芸当である。そうして少し片付くと、クローゼットから座布団を出して床に敷いてくれた。  僕がその様子を眺めていると、戸田がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。奇妙な男だが、やはり社会に出ている人間はこういう時に気が利くのだなと少しだけ感心し、なんだかそこまで至らなかった自分が少し恥ずかしかった。  「このコーヒーはうちのスタジオで出してるやつで、うちの自慢なんだ」  僕が一口飲むのを見届けて、戸田が誇らしげに言った。  「スタジオって、戸田の職場って写真屋さんだよね」  僕が聞くと、戸田は「さっきそう言ったろ?」と、事もなげに言った。  なぜ写真屋の自慢がコーヒーなのだろう。  そんな僕の疑問に意に介さず、今度は小山さんが続ける。  「他のスタジオとは比べ物にならないよねえ」  戸田がさらに誇らしげな顔を浮かべた。  他のスタジオはコーヒーを出さないか出してもインスタントか普通のドリップ・コーヒーだろう。コーヒーにこだわりを持っている写真屋は、戸田の職場だけのような気がする。  戸田が続けた。  「仕入れ先が違う。こだわりのコロンビア直輸入だからな。味よし香りよし器量よし、もひとつおまけに行儀よしときたもんだ。どこに嫁がせても恥ずかしくない」  社会とはそういうものなのだろう。僕はずっと田舎に住んでいたから東京のことはよく分からないけれど、きっと都会ではそんなものなのだ。小物ひとつでも大切にしないといけないのだろう。東京砂漠は厳しいものなのだ。よく分からないけれど。  ふたりに説明してもらったところによると、このアパート、モニカのテーマは「人情」なのだそうだ。アパートにテーマがあるなんて知らなかったが、東京ではそうなのかもしれない。僕の地元にはそもそもアパートがないからよく分からない。そういえば戸田に出会ってからまだ一時間ほどしか経っていないが、「東京ではそうなのかもしれない」とばかり考えている気がする。どうでもいいけれど。  大家さんである吉川さんの采配により、このモニカでは現代社会で失われつつある“近所の交流”が盛んらしい。多少の諍いはあってもそんなものはコーヒーでも飲んで少し話し合えばすぐに解決するので、住人同士はすこぶる仲が良いらしい。住人たちによる夏祭りも催されているようで、自由参加だが今まで欠席者が出たことはないらしい。  吉川さんはそういった「昭和的人情」の持ち主を見抜くスペシャリストだそうで、この道では右に出る者などいないようである。それがどういう道なのかはよく分からないが、とにかく住民たちが幸せいっぱいに暮らしているアパートのようだ。  「まあそういう訳で清、君は認められたんだよ。おめでとう」  「おめでとう」  ふたりは手を差し出し、握手を求めてきた。  何のことかはよく分からないが、二年連続で大学受験に失敗した僕としては何かに認められるというのはとても嬉しいことなのだ。僕は素直にふたりの手を握り返した。小山さんは、音楽家だからだろうか、その巨体に似合わない繊細な手つきで僕の手をそっと握ったが、戸田は「あああーああー」と言いながら僕の手を思いきり握った。痛い。手も心も。  「変な掛け声だねえ」  と呑気に微笑んでいる小山さんを横目に、僕は「痛い、痛い」と身をよじった。  「という訳で、今晩は歓迎会だな」  戸田が言うと、小山さんが「そうだねえ」と返した。  「とりあえず、このアパートに来たからにはあの人には会っておいた方がいい。このアパートの重要人物だからな」  「そうだねえ」  もう嫌な予感しかしない。このふたりを見ていると、「重要人物」というのは「要注意人物」なのではないかと不安で仕方ない。僕はなんとか逃れるための言い訳を探したが、そもそも僕の為の歓迎会を開いてくれるという人たちの気持ちを無下にできる言い訳なんかある訳ないのだ。  どうやら戸田が僕の不安を感じ取ったようで、楽しそうに言った。  「安心しろ。この人は俺や小山さんとは違う」  戸田の言葉に、小山さんが「ねー」と呑気な声で賛同した。  不安だ。とても。
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