一年目 ~移民の歌~

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 東京での生活は順調である。  最初こそ珍妙な隣人や広すぎる大学の敷地に面喰ってはいたが、それもやがて慣れてきた。戸田の扱い方はいまいち分からないけれど、変わっているだけで基本的にはいい人だし無害だから、これと言って問題はない。  小山さんもお付き合いしやすい良い人だ。最初こそ失礼ながら警戒してしまったものの、開いてくれた歓迎会で話してみるととても気さくな人だった。僕がチェロに興味を示すと、嬉しそうな顔をして丁寧に説明してくれ、おまけに聴かせてもくれた。プロの演奏だから無料で聴かせてもらっていいのか少し悩んだけれど、プロの演奏を無料で聴けるのもこのアパートの特典だと納得して、遠慮なく聴かせて頂いた。  「みんな知ってる有名な曲だよ」  と聴かせてくれたのは知らない曲だったけれど、僕は精一杯知っている顔で楽しませてもらった。ひとつ言えるのは、その演奏が心に染み渡る素晴らしい演奏だということだ。それ以来、日曜の朝は小山さんの部屋でコーヒーを飲みながらチェロの演奏を聴くのが僕の習慣になった。小山さんはいつも笑顔で僕を迎え入れてくれる。  そしてなんと言ってもすぐ下の階の住人、マキさんだ。僕は今まで色々なメディアで色んな「天使」や「女神」を見てきた。もちろん全て画面や紙面を通してだけれど、そこには確かにたくさんの人が天使だと言っても納得してしまいそうな綺麗な人がいた。しかし、マキさんは違う。「天使のような人」ではなく「天使」だ。いや、「女神様」なのだ。  その美しさは神々しく、その微笑みは神秘だ。そして微笑んだ時にかわいらしい鼻の頭に出来る小さいながらも聖なる小皺は、見る者全てを虜にする。規模こそ違うが、偉大さでいえばグランドキャニオンとそう変わりはないと僕は思う。僕がユネスコの人なら是非とも世界遺産に認定したいところだ。  その透き通るような声も忘れてはいけない。忘れようがない声なのだけれど、その魅力を伝えることを怠ってはいけない、という意味だ。  そして優しい。僕みたいにおどおどした挙動不審な男も歓迎してくれた優しさはまるで菩薩様のようだ。僕の中で「女神+菩薩=マキさん」という公式が出来上がった。  しばらく過ごすうちに、他の住人たちのことも少しずつではあるが分かってきた。毎朝会ううちに少しずつ話をするようになってきた松井さんもそのひとりだ。  松井さんは戸田の隣人、つまり僕のふたつ右隣の部屋に、小学生の娘さんのゆきちゃんとふたりで暮らしている。母親がいないということはゆきちゃんにとっても松井さんにとっても辛いことだろうから理由は聞いたことはない。松井さんにとってゆきちゃんこそが人生の全てらしく、厳しさもあるがすさまじい溺愛ぶりだ。  ゆきちゃんはチワワを飼っていて毎朝毎夕散歩しており、時折小山さんも一緒に散歩しているから、自然と僕とも仲良くなった。父ひとり子ひとりの生活は僕には想像できないが、ゆきちゃんは不幸など微塵も見せず、僕は彼女の明るさにいつも癒されている。  お父さんお母さん、僕の東京の生活はとても順調です。言葉に通じますし、迷子にはなりましたが、悪い人に騙されたりはしていません。今のところ。  先週あたりからツクツクホーシの声が聞こえ始めた。  僕はツクツクホーシが好きではない。みんなには全然似合わないと言われるけれど、僕は夏男なのだ。自称ではあるけれど、夏が好きなのは確かだ。サーフィンは出来ないし泳ぎも苦手だが、でも夏祭りや花火は好きだし、バーベキューの際に火を起こすのも実は得意だ。  ツクツクホーシなる輩はわざわざやってきて声を大にして夏の終わりを告げる存在であり、これが人間だったらきっとすごく意地悪な人に違いない。  事件が起こったのは、僕がそんな憂鬱な気分に振り回されている時だった。  月曜日だというのに僕は家にいた。大学をサボったわけではなくて、授業の枠の関係上、たまたま休みになっただけだ。そんな訳で僕は戸田に恵んで貰ったコーヒーを淹れて優雅な平日の朝を過ごそうと思っていた。  コーヒーを丁度淹れた時、インターフォンが鳴った。この軽やかで美しい音はマキさんに違いない。インターフォンはひとつだし、マキさん用のインターフォンというものはないのだけれど、マキさんが押すとなんとなく音が美しい。  僕は受話器を取らずに直接ドアを開けた。朝からマキさんの御姿を拝見できるなど幸運だからだ。  ドアを開けるともちろんマキさんがいたのだけれど、マキさんの他にゆきちゃんと小山さんがいた。ゆきちゃんはマキさんにそっと肩を抱かれ、目を真っ赤にしている。どうやら泣いていたようだ。一体どうしたというのだろう。
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