本編

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「ありがとう。でも、いいよ。どうしても読みたければ自分で取り寄せるから」  栄は礼を言って断るが、尚人はそれを遠慮と思ったらしい。  「遠慮しなくても、手帳を送るなら文庫本一冊一緒にしたって変わらないよ」  そういえば、忘れかけていたが電話の名目上の目的は手帳の処理方法についてだったのだ。——もちろんそんなのはただの言い訳で、栄は手帳などそれこそ小説本以上に必要とはしてはいないのだが。 「手帳ならゴミに出しちゃっていいよ、どうせ見返すこともないから」 「そうなの? でも……」  尚人は言いよどむ。いくら所有者の許可があったところで、他人の手帳を廃棄するのは気が進まないというのも当然の心理だ。かといって五年も前の手帳をわざわざ送料をかけて送ってもらうのは馬鹿らしい。  喉元まで「だったらあいつに捨てさせろよ」と出かかるが、さすがに嫌味と思われそうでこらえる。だが未生にわたせばきっとすぐにでも栄の痕跡などゴミに出す——下手をすればその場で火をつけて燃やしさえするかもしれない。なんせあいつは人の恋人を寝取るようなろくでなしだし、あの笠井志郎の息子だ。  そう、未生は笠井志郎の息子なのだ。 「……あれ、待てよ」  そこでふと栄は思い立った。  未生の実の父親である笠井志郎は元衆議院議員で、羽多野が政策秘書として仕えている人物でもあった。だから未生と羽多野は面識がある。それに笠井志郎は昨年の総選挙では落選したものの、議員返り咲きをあきらめてはいないと聞いているから保守連合とのパイプもあるだろう。いち公務員である栄が政党経由で人探しするのは悪目立ちしすぎるが、未生であれば。  もちろん栄は、未生と自分が生涯わかり合えない敵だと認識している。とはいえ栄は未生に大きな貸しがあるのだ。幼い弟の不登校に悩んだ未生が尚人の助けを借りたいと頭を下げてきたとき、栄はそれを許した。  あの代償を取り立てるのだとすれば、今しかない。
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