本編

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 大使館には外務省やその他省庁などの日本国内から派遣されてきた人間の他に、直接大使館に採用されているスタッフがいる。その国の言語や情勢に精通している日本人や日本語の上手い現地の人間から構成されるが、トーマスの場合は後者だ。  イギリスの大学で日本語を学び、その後日本に留学して修士号を取得したという彼は、言葉の乱れはなはだしい最近の若い日本人と比べてもよっぽどきれいな日本語を話す。  十代の頃から日本文化に憧れて育ち、日本人的な労働観や考え方にも通じているトーマスは非常に頼りになるサポートスタッフだが、その優秀さゆえに日々栄の心を傷つけていることにまではきっと気づいていないだろう。  読み書きはともかく英語での会話にはきっと苦戦するだろうとあらかじめ覚悟はしていた。三十代になるまで日本国内でしか生活したことのない男が、一朝一夕に完璧なコミュニケーション能力を手に入れる方法などこの世に存在するわけがない。  日本人駐在者や留学生も多い大都市だけに、ロンドンでの家探しは日系の不動産屋に頼ることができた。生活上の不便やトラブルについては大使館の人間に相談すれば日本語で解決策をアドバイスしてもらえる。銀行口座の開設その他生活上のいろいろな面でも「外交官」の身分は強力で、普通に海外生活をはじめるのと比べて圧倒的に恵まれていることはわかっている。  しかしその恵まれた環境こそが栄の現地への順応を妨げているのもまた事実だ。「小さな日本」である大使館の中にいる限り日本語で、日本の役所のルールで仕事ができてしまうからこそ、大使館の外で現地の人々と面会し議論し、交渉するための準備がなかなか整わないのだ。  英語で話しているとき栄はいつも自分が三歳児になったような気がする。洗練されたやりとりどころか、自分の意図することを最低限通じる言葉に変えること自体が難しい。  三歳児ならばまだ泣き喚けばそれですむのかもしれないが、残念ながら今の栄は外交官の肩書きを背負った三十路の男。怪訝な顔をする相手を前に愛想笑いを浮かべてやり過ごすので精一杯で、惨めな経験を重ねるほどに英語で話すことへの恐怖と苦手意識が高まった。
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