本編

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「最初は誰でもそうですよ。谷口さんの書く英語はそこらのイギリス人よりよっぽどきれいですし、聞くのと話すのは経験さえ積めばこなせるようになります。僕も最初日本に留学した時は、簡単な会話すらついていけずにショックでした」 「でもトーマスのそれは二十代前半の話だろう。三十路の耳と頭はなかなか新しいことに馴染めないんだよ」  ひたすら検索して舐めるように読んだ「初めての海外生活」系ブログでは、英語圏で生活すればまずリスニングが向上するのだという体験談を多く目にしたが、それは耳の柔軟な若者の限定の話であるようだ。二ヶ月経って栄が慣れたのは英会話ではなく「英語が話せない自分」。日々の屈辱から、さすがの栄も目を逸らすことはできなかった。 「谷口さん、考えすぎですよ。ちゃんと気分転換してますか? 家でもずっと仕事と英会話のことばかり考えてるんじゃないですか」  真顔で心配されて栄は否定できない。最初一ヶ月は家探しや生活のセットアップに忙しく仕事をおろそかにしていたから、やらなければいけないことは溜まっている。日々周囲に追い立てられるように進む日本での仕事と比べて、個人裁量の許される仕事が多いことも完璧主義者の栄を苦しめていた。  仕事が終われば個人契約した英語教師とのマンツーマンレッスン。家ではひたすら録音した面談記録を聞き、辞書を引きながら仕事に関係する書類を読みながら寝落ちする。まさしく仕事と英会話以外のことなどろくろく考えていない。  深刻な空気になりかけたところで、しかしトーマスが突如明るい声を出した。 「英語なんて彼女作ればすぐ上手くなりますよ。僕も日本で彼女ができてから会話得意になりました。ただ彼女の真似してたら友達に女みたいな喋り方だって笑われましたけど。谷口さんもガールフレンドを探したらどうですか?」  異性から日本語を学ぶ外国人「あるある」話に栄は苦笑するが、「彼女を作れば」という安直な言葉にうなずくわけにもいかない。適当に相槌でも打とうものならフットワークの軽い彼はすぐに女友達との出会いの場をセッティングしてしまうだろう。 「俺はそういうのは、ちょっとね。遠慮しておくよ」 「ああ、もしかして日本に恋人がいますか」  穏やかな言葉で、しかしきっぱりと断るとトーマスは勝手に誤解してくれたようだった。 「まあ彼女はともかく気晴らしは必要です。日本から来られる皆さんはほとんどご家族と一緒だけど、谷口さんはシングルでしょう。外国での一人暮らしは鬱になりやすいという調査結果もあるようですよ」 「気をつけるよ」  トーマスの言う通り、同僚の多くは妻子連れで赴任している。バックオフィス事務を担当する外務省プロパーの事務官には若い単身者もいることにはいるが、外交ともなるとそれなりの経験が必要になる分年齢も高くなりがちだ。結果、館内で独身者は栄や長尾を含めてかなりの少数派だった。  もちろん栄が結婚どころか女性と付き合った経験すらないことなど、誰一人として知らない。
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