本編

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 仕事を終えると英会話のレッスン、もしくはジムのプールでひと泳ぎ——そういった予定もない日はまっすぐ家に帰る。少し歩けば日本人観光客も多く足を運ぶ有名デパートや、大ヒットドラマのオープニングシーンにも使われた街角など目を惹く場所はいくらだってある。  だが、仕事も十分にこなせていないのにちゃらちゃらと遊び回るのは美意識に反する。もちろん日本からの出張者の案内も大使館員(アタッシェ)の任務だが、観光ガイドの真似事の優先度は栄の中で決して高くはなかった。  栄の借りている家はは職場のあるグリーンパークから地下鉄でほんの数駅の距離にある。駅からは少し歩くものの閑静な住宅街にあるコンシェルジュ付きアパートメントでの生活は快適だ。  ベッドルームが二つにリビングダイニング、バスルームと、かつて恋人だった相良尚人と暮らしていた麻布十番のマンションと似たような間取りは単身で暮らすには十分すぎるくらいで、賃料は目玉が飛び出るほど高い。  東京は住居費も物価も高いと思い込んでいた栄だが、いざ生活を初めてみれば体感的には何もかもロンドンの方が高く感じる。部屋探しについては、そもそも現地の若者が実家を出て暮らす場合多くがルームシェアを選択することから、日本のような単身用の物件自体が少ないことも影響しているようだ。 「毎年のように地下鉄も値上がりしているから、ロンドン中心部で働く人々は高い家賃と高い通勤費の究極の選択を迫られていますよ。日本のように通勤手当が一般的というわけでもありませんし。住居事情の改善は選挙の公約にもなっていたんですけど、なかなかすぐに成果は出ませんね」  不動産仲介業者の男はワーキングホリデーでやってきてそのままイギリスに居つき、もう十年が経つのだと言っていた。とはいえ彼のような日系業者が相手にするのは企業派遣の駐在員(エクスパッツ)や、栄のような大使館関係者など比較的経済的に余裕のある層だ。  このあたりは若い富裕層が暮らす街だとか、このあたりは都心からは遠いが有名サッカー選手や俳優も家を持っている地域だとか、聞こえの良い言葉とともに高価な物件ばかり勧めてきた。  学齢の子女を持つ家庭だと日本人学校やインターナショナルスクールの近くに住むことが優先されるし、車を持っていれば駐車場の問題もある。だが独身かつ自動車を運転することに関心のない栄にとって重要なのは治安と利便性のみだ。結局職場から交通の便が良く閑静な場所にあるこのアパートメントを選んだ。
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