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自分と尚人の関係がずいぶん前から駄目になっていたことについては納得済みで、別れたことに後悔はない。だがそこに至る過程——どこかで正しい道に戻ることはできなかったのか、もう少し心に余裕を持って優しくできていれば——極端な話、尚人の「三百六十五日」のルールが成就する前に一度でも彼を抱いていれば何かが変わったのではないか。そんな苦い思いは消えないままだ。
尚人がもしも新しい相手といるのだとすれば、栄だけが過去に引きずられていることになる。それすらしゃくに障るというのはきっとただのわがまま。だが今の自分には誰もいないし、どこに進もうとしているのかもわからない。
栄のイギリス赴任について聞いた父は無感動に「ふうん、そうか」とうなずくだけだった。母は「せっかくだから遊びに行きたいけど、お父さんも忙しいから」とため息。
妹に至っては「なんで貴重な休暇を使ってお兄ちゃんのところに遊びに行かなきゃいけないわけ?」とけんもほろろだ。それなりに高収入である弁護士の妹にとって「身内がいるので宿泊費がただになる」ことの魅力は薄いし、旅行経験豊富な彼女にとって栄はツアーガイド代りの役割すら期待されていない。
ベッドルームはひとつでいいという栄に不動産屋は「でも日本からのお客さんもいらっしゃるでしょうし。ほら、ロンドンってホテルも高いですからご家族が来られるときとか一部屋あると便利ですよ」と強引にツーベッドルームの部屋を押し付けた。
物件自体は気に入っているので今となっては男のセールストークに乗ってよかったと思うが、副寝室は使われることなく二ヶ月目にしてすでに物置と化していた。
そういえば——と、ふとある男の顔が浮かんだ。
羽多野貴明。栄にとっては元天敵。今はさすがに天敵とまではいかないが、相変わらず気に食わない、もう二度と縁を持ちたくない相手。
最後に保守連合の本部で会ったときに、うっかり海外赴任のことを話してしまった。あのとき羽多野は遊びに行く、と言って手を振った。
無職なので暇はあるだろうし、無職で一年以上暮らしているというのだから出所はわからないがそれなりに金もあるのだろう。まさかの話ではあるが、あの男の性格からして栄が嫌がることを知っていてわざとここまで足を向けることも……。
「いや、ないな。さすがにそれはない」
我ながら突拍子もない想像をして、栄はあわてて打ち消す。疲れているからこんな変なことばかり考えてしまうのだ。
第一、誰も遊びに来ないからといって寂しさなど感じない。自分の人望のなさこそ不満だが、神経質な性格なので実際に誰かを自宅に泊めるとなれば息苦しくて落ち着かないに決まっている。とりわけあんな無神経な男、万が一本当にやって来たとしても絶対に家になど泊めてやるものか。
あいつと再会するくらいなら誰も来なくていい。そう自分に言い聞かせてから、栄はその晩も日付が変わるまで録音したインタビュー音源を聞き続け、ようやく眠りに落ちてからも夜中に幾度となく目を覚ました。
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