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その週の木曜は英国政府主催のカンファレンスに招かれていた。特に発言を求められる立場ではなく、ただ傍聴席に座って話を聞いているだけという、要するに今の栄にとっては一番気楽な類の仕事だ。
急に予定が空いたからと、この日は同じ経済部に所属する久保村も急遽栄に同行した。一緒に行くと言われたときには勉強熱心だと感心したが、大使館を出る直前にトーマスが耳打ちをしてきた。
「久保村さんはきっとレセプション目当てですよ。今日のカンファレンス会場のホテル、カクテルパーティでもちゃんとした食べ物が出るって評判なんです」
栄は思わず吹き出しそうになった。トーマスの告げ口に疑う余地はない。なぜなら保健省から派遣されている久保村は、医療や保健の担当者としては不適格に思えるぽっちゃりとした体形をしているからだ。
腹が出ているからベルトでは心もとないのかサスペンダーを愛用していて、英国風にいえばハンプティダンプティ風とでもいうのか、ころころとした姿に決して憧れはしないが同時に憎めないキャラクターでもある。
「谷口さんは来るの初めてだっけ? ここのローストビーフはなかなか美味いんだよ。あとワインも、立食の割には悪くない銘柄が出てくる」
「……はあ」
会議を終えてレセプション会場へ移動しながらすでに久保村は飲食のことしか頭にないようだ。さすがに呆れて栄はちくりと一言くらい刺してやりたくなる。
「久保村さん、年明けに糖尿病対策のシンポジウムで講演するって言ってましたよね」
「ああ。それがどうかした?」
「さすがにちょっと……その体型では説得力がないんじゃないかと。食べるのが好きなのはいいですけど、せめて運動するとか」
どう見てもこの男、日本で言うところのメタボリック予備軍というやつに違いない。久保村本人は健康診断オールAを自称しているが栄は怪しんでいる。
一応は先輩なので気を遣いつつ苦言を呈した栄に久保村は照れたように頭を掻いた。
「うちは夫婦して飲み食いが趣味だからな。かみさんは食っても太らない体質で、一緒になって食ってるうちに僕はこの有様だよ。谷口さんの言うのもごもっともなんだけど……」
栄も何度か久保村の妻には会っているが、夫とは似ても似つかない細身の女性だった。ただ、ホームパーティの記憶を掘り起こせばテーブルの上には食べきれないほどの料理が並び、久保村も妻もずいぶんな量を食べていた気がする。痩せの大食いの女性と、食べただけ蓄積される男のカップルというのもなかなか大変なものだと他人事ながら同情する。
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