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「ヒロ! サカエ!」
ヒロ、というのは久保村の名前である弘忠の愛称だ。大使館に勤務するイギリス人は日本式に他の職員を名字に「さん」付けで呼ぶが、一歩あの建物を出れば当然現地のマナーが優先される。仕事でやり取りする英国政府のカウンターパートが初対面からファーストネームで呼び捨ててくるのに最初はずいぶん戸惑った。
ヒロ、というのはまだ良いのだろうが「サカエ」というのは彼らにとっては奇妙な名前であるらしい。何度正しても「カ」にアクセントを置いた不自然な発音で呼ばれることもやがて受け入れた。同じヨーロッパでも大陸にいけば、挨拶の際に頬を触れ合わせるチークキスが一般的だと聞けば、ファーストネーム呼びなど小さな話だと思える。
声の主はダンカンという現地政府の経済アナリストで、二週間ほど前にヒアリングをさせてもらった相手だ。国民性なのかただ栄が軽んじられているだけなのか依頼ごとを何かと放置されがちな中、親日派という彼はまめな性格もあって比較的頼みを受けてくれるからありがたい。
「……あ」
「ハイ、ダン!」
こういうときに戸惑いが先に立つ栄と比べて、久保村は慣れたものだ。器用に左腕だけで皿とグラスを支え右手をダンカンに差し出す。
「やあ、ヒロ。来ていたのか」
「だってここのホテルのローストビーフは僕の好物だから。ローカーボで体にもいいはずだしね」
「いくらローカーボだって、そんな山盛りにしたら意味ないだろう。……やあサカエ、君も元気か?」
久保村の英語にはきつい日本語訛りがあるものの、強弱がはっきりしていることと臆しない態度のせいか不思議と相手にはしっかり伝わる。文法や発音を気にしてモゴモゴと話しては怪訝な顔をされる栄とは対照的といって良い。しかも軽妙な冗談まで口にするのだから——ただ曖昧な笑顔で通り一遍の挨拶しかできない栄の心は少しばかり痛んだ。
「ええ、元気です。先週はありがとうございました……」
そう言って握手を交わせば他に何も言えなくなる。以前栄と面会した担当者が「彼はシャイで実に日本人らしい」と評していたようだが、栄は決して仕事で臆するタイプではない。ただ、言いたいことが言葉にならないだけなのだ。
惨めな気持ちになりかけた栄の目に、ふとダンカンの背後に立っている見覚えのない男が留まった。見たことのない男だが同僚だろうか——そんな疑問が顔に表れたのか、ダンカンは少し照れたように笑った。
「ああ、彼は僕のパートナーのエド。会計士なんだけど、今日は時間があるっていうから一緒に」
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