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「はは、最初は苦労するだろうけど大使館の中は小さな日本みたいなもんだし、秘書もつくから大丈夫だろ」
海外勤務経験者の多くは軽い調子でそんなことを言うが、栄は彼らのいう「大丈夫」ほど当てにならないことはないと思っている。とりわけ友安のような留学経験者は、三十路で初めて外国語で仕事をしようという人間の感じるプレッシャーを軽視する傾向がある。
純ドメ——というのはいわゆる帰国子女でもなければ留学経験も海外勤務経験もない人材を指す。
有名一貫校からT大法学部と官僚を目指すに当たって完璧なコースを歩んできた栄だが、正直国際関係は鬼門だった。潔癖で順応性が高くない性格を自覚していたから留学に興味はなかったし、そもそもかつては省内で国際業務の重要性というのはそこまで高くなかったのだ。
総合職職員のほぼ全員が留学するという恵まれた省庁もあるが、栄のいる産業開発省にはそこまでの留学枠はない。かつては国際系のキャリアを積む人間とそれ以外とで若いうちからぼんやりとルートが分かれる傾向があったし、国際キャリアがなくとも出世は可能だった。むしろ優秀な若手は忙しい部署に回されるので、留学準備に割く時間はないとすら言われていたのが栄の係員時代だった。
だが最近ではそんな風潮にも明らかな変化が見えはじめている。グローバリゼーションが進む中で、国内だけで完結する施策は少なくなってきているし、海外事例を積極的に研究し取り入れることはいまや必須だ。
そういう意味では今回の英国赴任は栄にとって数少ない仕事上のコンプレックスを解消するいい機会ではあるのだが、いかんせん受験レベルの英語には自信があっても、実際に外交——しかも英語を母語とする国の政府と渡り合う語学力を一年弱で身につけるというのは至難の業だ。
外務省の研修には語学科目もあったが、当然そんなものではとても足りない。この一年、栄は自費でも英会話スクールに通いマンツーマンレッスンに馬鹿にならない金額を払った。会話の機会を増やそうとスカイプ英会話にも挑戦したし、暇があれば英語のニュースを聴くようにしている。だが、やればやるほど足りない部分が見えてきて不安は増すばかりだ。
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