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気苦労は多いながらも平穏な日々に突然亀裂が入ったのは翌日のことだった。
ダンカンと恋人のことが気に食わなくて栄は珍しく前夜自宅で飲みなおした。ウイスキーをロックで、何杯飲んだか覚えていないがボトルの中身はかなり減っていた。久しぶりに強い酒を飲んだせいか、朝からずっと気分が悪かった。
突然机の上の電話が鳴る。その音に頭痛がひどくなるのは決して二日酔いのせいだけではないはずだ。英語での電話は対面での会話以上に苦手だから、呼び出し音を聞くだけで気分が悪くなる。日本語、日本語と祈りながら受話器を取ると大使館の電話交換担当者が早口で告げる。
「谷口書記官に、保守連合の方からお電話です。来月頭の議員視察の件でとのことですが」
「……え?」
相手が日本語を話すであろうことは喜ばしいが、別の意味で栄は動揺する。大臣や政府職員だけでなく国会議員が公務でイギリスを訪れる際のサポートも大使館員の業務だが、栄の予定表に保守連合所属議員の視察など入っていない。前任者からもそんな話は聞いていない。
「本当にそれ、私への電話ですか? そんな予定は……他の部への電話と間違えているのでは」
二日酔いと同時に血の気もさっと引いていった。
「でも先方は経済部の谷口さんって言ってますから。申し訳ないですけど、とりあえず聞いてもらえます?」
在英三十年、大使館歴二十五年の交換手女性は、短い任期で派遣されてくるひよっこ外交官よりよっぽど強気だ。冷たくそう言い切られると反論もできず、栄はとりあえず電話を受けることにした。
頭の中には嫌な予感が満ちる。もしもこれが前任者の引継ぎ漏れだとすれば——だが来月頭といえばもう数週間もないではないか。視察先の調整や、もし来訪者が英国政府の要人との面会を希望しているとすればどうしたら良い。いまさらアポ取りなんて絶対に無理だ。最悪の事態とその突破方法を必死に巡らせていると、保留音が止まる。
「もしもし経済部、谷口ですけど」
精一杯の平静を装い栄がそう名乗ると、電話の向こうからは聞き覚えのある声が響いてきた。
「元気そうだな、谷口くん」
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