プロローグ

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 栄はこの男に対して恨みと恩の混ざった複雑な感情を抱えている。  仕事でさんざん痛めつけられた苦い気持ちは決して忘れることができず、あの時期に苦しんだEDの原因は絶対この男にあるのだと栄は今も強く信じている。だが何より気まずいのは——家族にも職場にもひた隠しにしている、栄が同性愛者であるという事実を知られていることだ。  それどころか酒の席で自ら口を滑らせた結果とはいえ、羽多野は栄が当時の恋人だった尚人を、笠井(かさい)未生(みお)という学生に寝取られたことまで知っている。  要するにその気になれば羽多野は栄を脅して百万、二百万の金を強請(ゆす)り取れる程度の秘密を握っているのだ。そんな男と話をしていて楽しいはずなどない。  一年近く顔を見ないうちに忘れかけていたことが鮮明に蘇り、だんだん栄は腹立たしい気持ちになってきた。  第一、たかが議員秘書のくせに、何かと偉そうに人を論評して。  いや、それどころか今の羽多野は秘書ですらないただの無職ときどきアルバイトだ。栄がわざわざ時間を取って付き合ってやるような相手ではない。身長は少しくらいこの男の方が高いかもしれないが、それを除けば顔だって育ちだって学歴だって、栄が羽多野に劣るものなどないはずだった。  そんなことを考えて溜飲を下げながら缶コーヒーを一気に飲み干す。空き缶をゴミ箱に投げ込めば、それ以上羽多野の話に付き合う理由もなくなった。 「じゃあ、私はそろそろ勉強会に戻ります。コーヒーご馳走さまでした」  そう言って背を向けかけたところで、羽多野が小さな爆弾を落とす。 「そういえばロンドンって、あの子は付いていくの? それとも遠距離恋愛するつもり?」  栄は硬直した。  あの子、というのが尚人を指しているのは間違いない。そういえば最後に羽多野と会ったとき栄はまだ尚人と暮らしていて、浮気発覚後の関係に悩んではいたものの別れようとまでは考えていなかった。羽多野は栄がまだ尚人と一緒にいると思っているのだ。 「……別れました。あなたには関係ないことですけど」 「へえ、そうなんだ」  微かな笑みに嫌な感じのする返事。栄がそれを振り切ろうとしたところで廊下にざわざわと人があふれてきた。ちょうどインド勉強会が終了したらしい。これ幸いとばかりに栄は友安の姿を探すと小走りで駆け寄った。
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