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「ああ、そんなこともありましたっけ」
栄の背を、冷たい汗がまた一筋伝う。後ろめたさはみじんもないが、背後の寝室にいる男にはこんなやりとり聞かれたくない。
羽多野はこんな些細なことで本気で嫉妬するほど幼稚ではないだろう。だが、性悪な男はきっと長尾の存在を絶好の材料として、さも栄が不貞をはたらことしていたかのように振る舞い、嫌みったらしく責め立ててくる。
栄に対して優位に立つためならば手段を選ばない、羽多野はそういう人間だ。
「でも……ほら、俺、ちょっと最近また忙しくて」
苦笑いしながら何度繰り返したかわからない「忙しい」という言い訳を繰り返す栄に向かって、長尾が一呼吸置く。その表情に奇妙な深刻さを感じたのは気のせいだっただろうか。
「じゃあ、どうですか? ドル円が3ヶ月前の水準に戻ったら食事に行くっていうのは。そうすると谷口さんの仕事も少し落ち着くでしょう」
珍しく食い下がる長尾は、微妙に断りづらい提案を重ねた。
面倒見がよく人懐っこい男の誘いを疎ましく思うべきではないとわかっている。それでも栄はこのとき本気で、目の前にいる同僚の口を塞いで玄関からたたき出してやりたい衝動に駆られた。
背後で、壁を叩くような音が聞こえたのはおそらく気のせい。あまりに神経質になっているがゆえの幻聴。だが、長尾の滞在が長引けば羽多野の機嫌は悪化して、いよいよ悪ふざけ……というか嫌がらせをはじめるかもしれない。
遠回しな言葉で断っても長尾には通じないことを、栄はいいかげん学んだ。あきらめるどころか、「多忙」「遠慮」を言葉通りに受け止めた結果、逃げ道を塞ぐような提案を重ねて事態を悪化させる。
こうなっては背に腹は代えられない。栄は覚悟を決めた。人との縁を切るには、嫌われるの覚悟でひどい態度を取るもしくは——手切れ金的なものに限る。
「ちょっと待っていてください」と言い残しリビングへ行くと、棚からウイスキーを一本手に取る。
紙袋に入れたそれを差し出すと長尾は目を丸くした。
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