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「……っ」
口蓋は、口の中でとりわけ弱い場所。ざらつく粘膜を舌で強く擦ると、背中が弓なりに弾んだ。
一歩家を出たら憎たらしいまでに取り澄ました姿を崩さない栄がこんなに容易く乱れるだなんて、一体誰が想像するだろう。
いや。誰にも、思い浮かべることすら許したくはない。
一度は勝ち誇った気分になったにも関わらず、自分でもよくわからない焦燥……というよりむしろ独占欲が湧き上がった。
舌が痺れるほど長いキスから解放すると栄は荒い息を吐く。体力には自信のあるはずの男だが、クロールとセックスでは使う筋肉も呼吸法も異なるのだろう。それに羽多野にも、ベッドの上はこちらのフィールドだという自負がある。
「谷口くん」
名前を呼んで、両頬を包み込んでいた手を滑るように動かし前髪をかき上げる。出勤する日よりはラフであるものの「休日のリラックススタイル」のお手本のようにセットしてある髪を崩して形の良い額を手のひらで味わうと、唾液で唇を濡らした栄はくすぐったそうに目を細めた。
警戒の薄れた姿に、ふっと魔がさす。
「いまさら遠慮することないだろ。やりたいならそう言ってくれれば良かったのに」
ここまでくれば抱き合うことにストップはかからないだろうと計算した上で話を蒸し返した。多少の意地悪はむしろスパイスになる。
「そういうわけじゃないって言ったでしょう」
「だったらさっき、何を言おうとした? 『昨日だって』何?」
しつこい追及で耳腔をくすぐる。手のひらに、言葉と吐息。さらには重なった体を擦り合わせるようにして全身でゆるゆると欲望を刺激すると、栄はとうとう白旗を上げた。
「羽多野さんが思ってるような意味じゃないです。ただ、これからもっと忙しくなって余裕なくなるのは見えてるんだから、だったらまだ今のうちにって、ちょっと頭をよぎっただけで……」
いや、白旗を上げたというのは言い過ぎか。少なくとも頭上にまでは上がっていない。腰のあたりまで、背中に隠すように控えめに上がった白旗を思い浮かべて羽多野は苦笑する。
「いい年してがっついてる俺が、干上がって死なないようにってことか。それはありがたい配慮だな」
欲情して抱かれたかったと言えない栄の、苦しすぎる弁明。いつだってわがままで強引で欲深いのは羽多野。栄はそんな羽多野に慈悲を与えてくれるだけ。まあ、完全に間違いとも言えないのだが。
「だって、ほら。ペースを崩すと結局こんなふうに変なタイミングで」
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